10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。

1760年代のイギリス 七年戦争終結

 日本は江戸時代後期、田沼意次側用人になったころである。このころ、ヨーロッパは七年戦争の真っただ中であった。七年戦争は、18世紀最大の戦争であり、舞台はヨーロッパにとどまらず、インドやアメリカ(新大陸)まで巻き込んだ戦争となった。

 

 前回の復習 アメリカ独立戦争

 18世紀は、フランスが太陽王ルイ14世絶対王政絶頂期から、フランス革命ブルボン朝が崩壊していく激動の世紀である。そのような18世紀を見ていく過程で重要なのは、2つあります。

 1つ目は激動の外交関係である。18世紀以降同盟関係はめまぐるしく変化している。18世紀は、イギリス陣営かフランス陣営化を確認していくことが重要である。アメリカ独立戦争の場合、ヨーロッパ諸国はすべてフランス・アメリカ連合軍側についていた。

 2つ目は、植民地の状況である。この時期の重要ポイントは、インドとアメリカ(新大陸)である。アメリカは、スペイン=ハプスブルク家が衰退したことで空白状態になった。インドは、アウラングゼーブ帝の死により分裂状態になっていた。アメリカ独立戦争の場合、アメリカでは、アメリカ独立戦争の敗戦により、イギリスはカナダ以外の拠点を失った。一方、インドではマラーター戦争の勝利によりインドの植民地化は促進された。

 今回は、18世紀最大の戦争、七年戦争を見ていきます。

七年戦争下のイギリスとは

七年戦争とは

 七年戦争は、オーストリア継承戦争のリベンジマッチである。オーストリアハプスブルク家プロイセンへ侵攻した戦いである。フランスは、ロシアとともにオーストリアを支援した。一方、イギリスはプロイセンを支援した。
 イギリスのプロイセンへの支援は、ほぼ金銭的支援のみで、軍隊の大部分はアメリカとインドへ送っていた。このため、次のアメリカ独立戦争では、プロイセンはロシアの武装中立同盟に参加することになる。

 59年、オーストリア・フランス陣営はクネルスドロフの戦いに勝利。オーストリア・フランス陣営はベルリンを占拠した。しかし、61年に七年戦争は急展開する。ロシアのエリザヴェータ女帝が急死。親プロイセン派のピョートル3世が即位。ロシアが戦線を離脱した。また、フランスも、インド・アメリカでの戦争に敗戦。63年、七年戦争終結した。

 このことで、ロシアとプロイセンは急接近。アメリカ独立戦争武装中立同盟やポーランド分割につながる。

アメリカ(フレンチ=インディアン戦争)

 アメリカでは、アメリ東海岸を奪われたネイティブアメリカンアメリカの先住民、いわゆるインディアン)がフランス軍と手を結び、イギリス植民地軍と戦った。イギリス本国はイギリス植民地へ援軍を派兵した。イギリスはアメリカとインドへ兵隊を送り込み一方、フランスは全精力をヨーロッパ戦線に終結させた。そのため、この戦争で、イギリス・イギリス植民地連合軍は、フランス・ネイティブアメリカン連合軍に勝利した。

インド(第三次カーナティック戦争プラッシーの戦い

 インドでは、南インドのカーナティック地方とインド北東部のベンガル州が舞台となった。

 ベンガル州は、ベンガル太守とフランス東インド会社シャンデルナゴル)連合軍がイギリス東インド会社カルカッタ)に敗北した。この戦いをプラッシーの戦いという。

 カーナティック地方では、マドラスのイギリス東インド会社が、フランス東インド会社の拠点ボンディシェリを占領した。

 

ホイッグ党政権と大ピット

 当時のイギリスは。ホイッグ党ニューカッスル首相であった。しかし、実権を握っていたのは大ピット(ウィリアム=ピット)であった。大ピットはフランス革命ナポレオン戦争で活躍する小ピットの父である。戦争推進派、タカ派の議員として名前が知られていた。

労働者階級の登場

 農業革命で、農業生産性が向上。少ない人数での農業を行うことができるようになった。そのため、地主は農民のリストラを行った。リストラされた農民は都市へ向った。この頃都市は、産業革命の真っただ中。多くの労働者を求めていた。これにより、大量の労働者が誕生した。

パリ条約とトーリ党(王党派)政権成立

ジョージ3世が即位

 このころ、ジョージ3世が即位した。ハノーヴァー朝としては珍しく政治に関心の高いイギリス国王であった。当時、ジョージ3世は七年戦争の早期終結を望んでいた。そのため、戦争を推進する大ピットらホイッグ党政権が邪魔であった。ホイッグ党を排除し、トーリ党政権が樹立した。62年に首相になったピュート首相はジョージ3世の家庭教師であった。

パリ条約で七年戦争終結

 ピュート首相は、七年戦争終結。以下のような講和条約を締結した。

 この条約により、フランスは海外植民地の大部分を失うことになった。この屈辱によって、ルイ16世(パリ条約期はルイ15世)はアメリカ独立戦争参戦に踏み切ることになる。また、フランスブルボン朝は、海外植民地からの収入源を失ったことで財政難になり、これが要因となってフランス革命へ向かうことになる。

 しかし、ピュート首相もフランスに譲歩できない背景があった。議会の説得である。議会の多数派を占めているのは野党ホイッグ党である。ホイッグ党七年戦争の継続を望んでいた。

ヨーロッパ

 プロイセンは、オーストリア継承戦争で獲得したシュレジエンを確保した。このことにより、プロイセンオーストリアハプスブルク家)はほぼ対等な関係となった。19世紀のウィーン条約では強国として四国同盟に参加した。
 東欧は、プロイセンオーストリアハプスブルク家)、ロシアの3強国が併存する状態になる。この3か国でポーランド分割が行われる。

 イギリスは、ヨーロッパではほとんど領土を得ることはなかった。フランスから地中海のミノルカ島とアフリカ東岸のセネガルを獲得したのみであった。しかし、この2つの地域は、アメリカ独立戦争時に、ミノルカ島はスペインに、セネガルはフランスに奪われた。

アメリ

 アメリカ合衆国は地理的条件で東西に4つの地域に分けられる。東から、アメリ東海岸ルイジアナ東部、ルイジアナ西部、そしてカリフォルニアである。これらの地域は2つの山脈と1つの大きな川で分けられた。東から、アパラチア山脈ミシシッピ川、ロッキー山脈である。

 七年戦争前は、アメリ東海岸がイギリス植民地、ルイジアナ東部とルイジアナ西部がフランス植民地、カリフォルニアがメキシコ領であった。

 七年戦争で勝利したイギリスは、フランス(ブルボン朝)からルイジアナ東部とルイジアナ西部およびルイジアナへの玄関口であるカナダを獲得した。

 イギリスは、広大なルイジアナの統治は難しいと判断。スペイン(ブルボン朝)にこの地域を譲った。かわりにスペインからフロリダを獲得した。

 その後のルイジアナの歴史は以下のようになる。ルイジアナ東部(イギリス領)は、アメリカ独立戦争アメリカ領になる。一方、ルイジアナ西部(スペイン領)は、ナポレオン戦争でスペインがナポレオンの占領下に入った際に、アメリカへ売却された。

 イギリスはこのほかに西インドのトバコをフランスから獲得した。西インド諸島トバコとフロリダは、アメリカ独立戦争敗戦時にスペインに奪われた。この結果、19世紀までイギリス領として残ったのは、カナダのみであった。

インド

 フランスは、南インドのボンディシェリベンガル州のシャンデルナゴルの拠点を維持したものの、それ以外のインド貿易はイギリスが行うこととなった。また、イギリス東インド会社ベンガル太守からベンガル州の徴税権を獲得した。これにより、イギリス東インド会社が貿易会社からインド政府へ変貌していくことになる。

七年戦争後のイギリス

 ホイッグ党政権の復活

 ピュート首相は、国王ジョージ3世の厚い信頼を受けていた。しかし、議会では少数与党であり、野党ホイッグ党の協力を得ないと予算も通すことができなかった。

 ピュート首相は七年戦争の戦費回収のため、増税法案を提出。議会はこれを否決。ピュート首相は退陣。ホイッグ党政権が復活した。

七年戦争の戦費回収のため、印紙税を導入

 18世紀、ヨーロッパには徴兵制度はなかった。(徴兵制度が登場したのは18世紀末のフランス革命のころ。)そのため、戦争を行うには傭兵を雇うため莫大なコストを必要とした。そのため、戦争を行うには増税が必要であった。

 しかし、18世紀半ばのイギリスは違った。17世紀末にイングランド銀行を設立。この頃になると金融市場が整備された。それにより、国債によって戦費を賄うことができた。しかし、国債は返済義務がある。そのため、七年戦争後、国債の返済資金をいかにして確保するかが重要になった。ピュートの増税もこの問題を解決するためにどうしても必要であった。

 ホイッグ党政権は、この返済資金を植民地に求めた。アメリカ植民地に印紙法と砂糖法を導入した。いわゆる植民地に対する増税である。これに対し、アメリカ植民地の人々やイギリス商人は反発した。当時、イギリスの商人は参政権を持っていなかった。この事件により、イギリス商人は参政権を求めるようになった。

 植民地でも抵抗の動きをみせた。アメリカ南部のヴァージニア州議会では、印紙法反対法が成立した。(これはイギリス本国へのみで法的実行力はない。)この時に出た明言が「代表なくして課税なし」である。

 これらの印紙法反対運動をうけて、たった1年で印紙法を廃止した。ただ、これにより、植民地では愛国派が台頭してきた。そのため、1760年代後半、イギリス本国とアメリカ植民地でたびたび交渉が行われた。

産業革命の進展

 18世紀は、産業革命の世紀である。18世紀の産業革命は綿工業の機械化の歴史である。これは、3つの分野に分かれる。綿花から糸を作る製糸技術。糸から布を作る織物技術。そして、これらを動かす動力源である。

 18世紀の産業革命のきっかけになったのは、1830年代のジョン=ケイの飛び杼(シャトル)である。これにより、綿織物の生産量が格段に増加した。しかし、これにより綿糸の不足が発生した。

ハーグリーヴズのジェニー多軸紡績機で糸の大量生産に成功

 64年、ハーグリーヴズがジェニー多軸紡績機を発明した。これにより、糸の大量生産に成功した。しかし、人力で紡ぐ糸と変わらず、切れやすい欠点を持っていた。

アークライトの水力紡績機で強い糸の生産に成功

 69年(ジェニー紡績機の5年後)、アークライトが水車によって糸をつむぐ水力紡績機を発明した。これにより、人力では作れない強い糸を作ることができるようになった。これにより綿織物の機械化の道筋が整った。しかし、大量生産することはできないという欠点が残った。

ワットの蒸気機関で、川がなくても水車が回せる。

 69年、動力源にも大きな進展があった。それ以前の動力源は水車であった。そのため、工業地帯は川のそばに集中した。

 しかし、69年ワットは、蒸気の力を使って水車を回すことに成功した。これにより、川がなくても機械を動かすことができるようになった。この技術によって、イギリスの工業化はさらにン進展した。この功績がたたえられ、力の単位でワットが使われ鵜ようになった。電球の〇W(ワット)のワットは、力の単位である。

 この原理は現在も使われている。火力発電はこの技術を利用している。一方で水力発電は、それ以前の技術による発電技術ということになる。

 蒸気機関を動かすには、火を作ることが重要であった。18世紀はこれが木炭で行われた。そのためこの時期、イギリスの森林面積は大きく減少した。これが19世紀に入ると石炭に代わり、20世紀に入ると石油に代わった。21世紀、これが原子力に代わるものと思われるが、課題はまだ多い。

 一方、蒸気機関は水車と違って、場所を選ばない利点がある。つまり、移動しながらでも機械を動かすことが可能になった。これが19世紀初頭の交通革命につながる。

クック船長とオーストラリア

 このころ、イギリス海軍クック船長が太平洋の探検を行った。これにより太平洋の多くの島が発見され、イギリス領になった。
 69年にはニュージーランド、70年にはオーストラリアに上陸。イギリスの太平洋の植民地化は、太平洋西南部のこの2つの島を中心に展開していく。

この頃の日本は

 

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 屈辱のパリ条約を結んだフランスは

 

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 イギリスとフランスの係争地インドは

 

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