10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。

18世紀のインド ムガル帝国と英仏植民地戦争

 18世紀(1701年~)、日本は江戸時代後期。

 このころ、インドはムガル帝国の時代。アウラングゼーブ帝が最大領土を得てから衰退期に入っていった。これにより、マラーター同盟などの地方政権が乱立した。一方で、ヨーロッパの植民地化がかなり進んだ。その中心は、イギリスとフランスである。

 

 前回までの復習 19世紀初頭のインド

 16世紀に建国したムガル帝国は、19世紀に入ると権威的なものになっていた。事実上は北インドのデリー周辺を治めるちほうせいけんになっていた。地方は、デカン高原マラーター同盟やインド北西部(インダス川流域)のシク王国など地方政権が乱立していた。また、インド北東部(ガンジス川流域)のベンガル州などはイギリス東インド会社の領土となっていた。

 今回のテーマは2つである。1つ目は、なぜ、ムガル帝国は地方政権まで低下したのか。2つ目は、イギリス東インド会社がどのようにインドの植民地化を進めるかを見ていきます。

18世紀はどんな時代 絶対王政と市民革命

 18世紀のキーワードは絶対王政と市民革命である。18世紀初頭は、絶対王政の時代である。その象徴がフランスのルイ14世であった。絶対王政は、多くの戦争を引き起こした。七年戦争が起きたのもこのころである。しかし、市民革命によって、絶対王政の時代がおわり、立憲君主制や共和政が次々誕生した。アメリカ独立戦争フランス革命などである。

アウラングゼーブ帝 の死

 アウラングゼーブ帝は熱心なイスラム教徒であった。そのため、シズヤ(イスラム教徒以外にかける人頭税)の復活やヒンドゥー教などの寺院をモスク(イスラム教の教会)への建て替えが進められた。そのため、ムガル帝国イスラム教徒以外の反発を受けるようになる。

 07年にアウラングゼーブ帝が亡くなると、インド各地で異教徒たちが独立運動を行った。これにより、インドは分裂状態になった。


地方政権の乱立

 アウラングゼーブ帝は、イスラム教以外の宗教を弾圧していた。そのため、アウラングゼーブ帝が亡くなると、異教徒たちが次々独立した。

シク教徒の乱

 シク教とは、ヒンドゥー教イスラム教の要素を加えた宗教。カースト制度(インド古来の階級制度)の否定や偶像崇拝の否定を行った。

 16世紀初頭のインドの北西部のパンジャーブ地方(現在のパキスタン北部)で始まった。当初は平和的な宗教であった。しかし、17世紀後半、アウラングゼーブ帝のイスラム教強制政策がはじまると武装化ムガル帝国に抵抗した。アウラングゼーブ帝が亡くなると、パンジャーブ地方シク教徒の国家が多数建国した。

マラーター王国

 マラーター王国は、インドの中央部デカン高原にあるヒンドゥー教の国。17世紀半ばに建国。しかし、アウラングゼーブ帝の時代にムガル帝国が侵攻。滅亡の危機に瀕した。しかし、アウラングゼーブ帝がなくなると息を吹き返した。

アフガン王国がインドへ侵攻

 ムガル帝国が衰退すると、隣国アフガンがたびたびインド編侵入するようになった。

 17世紀初頭、隣国のペルシアでアフガン人によってサファヴィー朝の王が廃位。

 29年、トルコ系軍人ナーディル=シャーがアフガン人からペルシアを奪還。サファヴィー朝が復活した。

 36年、ナーディル=シャーがサファヴィー朝の王から禅譲アフシャール朝開いた。

 ナーディル=シャーはインドへ侵攻した。衰退したデリー町で略奪行為を行った。

 47年、ナーディル=シャーが暗殺。アフシャール朝は衰退した。この混乱に乗じてアフガン王国が独立した。

 61年、アフガン王国がインドへ侵攻。マラーター同盟軍に勝利した。

イギリス VS フランスの植民地戦争

 この時代、イギリスとフランスの植民地戦争が激化していた。イギリスとフランスで植民性政策に大きな違いがあった。イギリスはロシアのように寒冷な場所で生活には適さなかった。そのため多くの人が一旗揚げるため植民地へ移住した。そのため、原住民と大きな対立を受けた。一方で、フランスは地中海に面するくらい温暖な地域が多い。そのため、植民地の獲得を商業目的であった。そのため、現地の人と仲が良かった。

 このため、この時期の戦争は、イギリスVSフランス・現地政権連合軍の構造が大きかった。

カーナティック戦争南インド

 カーナティック戦争南インドにおけるフランスとイギリスの戦いである。17世紀、イギリスはマドラス(1640年)に、フランスはボンディシェリ(1674年)に拠点を置いた。

第1次カーナティック戦争

 44年、オーストリア継承戦争の最中に行われた。フランスはイギリスの拠点マドラスを占領した。しかし、オーストリア継承戦争終結するとフランスはマドラスをイギリスを返還した。

 オーストリア継承戦争とは、マリアテレジアが相続する際にし、プロイセンなどの神聖ローマ帝国の諸侯が起こした戦争である。フランスは、プロイセン側を支援した。

第2次カーナティック戦争

 インドのカーナティック州の太守の座をめぐり内紛。イギリスとフランスはそれぞれ介入した。

プラッシーの戦い

 1757年、英仏植民地戦争はピークを迎える。ヨーロッパでは、七年戦争。新大陸(アメリカ)では、フレンチ=インディアン戦争がおこなれた。インドでは、インド北東部のベンガル州のプラッシーの戦いと、インド南部の第三次カーナティック戦争が同時並行で行られた。

 プラッシーの戦いとは、インド北東部、ベンガル州をめぐるイギリスとベンガル太守との戦争である。当時、イギリス派カルカッタに、フランスはシャンデルナゴルに拠点を置いていた。フランスはカーナティック戦争を行いながら、ベンガル太守を支援した。

 プラッシーの戦いは、イギリス東インド会社の勝利に終わった。この戦争で、イギリス東インド会社ベンガル州(バングラデシュ)を占領。交易とは別に、ベンガル州の税収が入るようになった。一方、フランスはアメリカ・インドの拠点を失う。これに伴う莫大な戦費と植民地からの収益がなくなったことで、フランス王室は財政難になる。これがフランス革命につながる。

この頃の日本は

 

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 イギリスのライバル、フランスは

 

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