10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。HPを開設しました。https://sekaishiotaku.com/

17世紀後半のイギリス 名誉革命とルイ14世

 今回から、18世紀から16世紀は前半と後半に分けて50年単位で見ていくことにします。

 17世紀後半の日本は、江戸時代初期。生類憐みの令を出した徳川綱吉の時代である。

 このころのイギリスは、ピューリタン革命が終わったばかりで、クロムウェルの独裁の時代であった。そのあと、王政が復活するが長くは続かなかった。2回目のイギリス革命、名誉革命がおこる。これにより、オランダとの同君連合が成立する。

 

 

クロムウェルの独裁

 ピューリタン革命によって、国王が処刑され共和政が成立した。このあと、反乱軍のトップであったクロムウェルの独裁が始まる。クロムウェルは、アイルランドスコットランドの征服を行った。イングランドは反カトリック機運が強かった。それを受けての遠征である。しかし、実際はジェントリがアイルランドスコットランドに後代の土地を得たかっただけである。また、クロムウェルは、イングランド商人の要請で航海法を制定した。イングランドの港からオランダを占めだした。これにより、英蘭戦争が始まった
 

王政復古 国王VS議会 第二ラウンド

 クロムウェルの独裁は長くは続かなかった。イングランド国民は厳格なピューリタン精神に基づくクロムウェルの政治は好まなかった。クロムウェルが亡くなるとチャールズ1世の国王復帰を認めた。
 彼のバックは有力国がついていた。スチュアート朝の仲のいいフランスである。当時フランスは、ブルボン朝の全盛期である。太陽王ルイ14世である。ルイ14世は、宗教の自由を認めたナントの王令を廃止。カトリック教の強制を始めた。
 チャールズ2世も、カトリックの復興を検討を開始した。しかし、イングランド議会はこれに反発した。これにより登場したのが審査法である。審査法とはカトリック教徒などイギリス国教会以外の人は国会議員などの公務員になれないとした法律である。この審査法は、アイルランド人差別が問題視された19世紀初頭まで続いた。
 チャールズ2世は、これを武力によって弾圧しようとした。これに対抗してイングランド議会は、人身保護法を制定した。今では当たり前の逮捕状なしに身柄を拘束できないとする法律である。
 このように、国王チャールズ1世と議会の対立が激しくなった。そのような中でイングランド議会に2つの派閥が成立した。国王の政策に柔軟な対応するトーリ党と国王の政治活動に制限を加えるべきと考えるホイッグ党である。このころから2大政党制が確立された。

名誉革命でオランダと同君連合へ

 チャールズ2世が亡くなり、ジェームズ2世の時代に代わってもイングランド国王のカトリック政策は維持された。危機感を感じたホイッグ党とトーリ党は共同して国王を追放した。これが名誉革命である。ジェームズ2世は抵抗せずにルイ14世が治めるフランスへ亡命した。
 イングランド議会は、オランダへ嫁いだジェームズ2世の娘メアリ2世を国王に指名した。メアリ2世とその夫オランダ総督ウィリアム3世の共同統治となった。これにより、クロムウェルが始めた英蘭戦争は同君連合になることで終結した。
 当時、オランダは、フランス=ブルボン家太陽王ルイ14世と戦争中であった。オランダ総督ウィリアム3世にとってこの同君連合は好機であった。
 ウィリアム3世とメアリ2世はイングランド議会が定めた権利の宣言に署名した。これにより、権利の章典となった。これは議会と国王の関係を定めた法律で、いわゆる憲法に相当するものである。
 また、ウィリアム3世は、イングランドがフランスの傀儡政権にならないように王位継承権を定めた。これにより、ウィリアム3世の家系が断絶した場合、北ドイツのハノーヴァー家がイングランド国王になることが定められた。

ロンドンが金融都市として発展

 ウィリアム3世イングランド国王になり、ロンドンへ移り住むと、多くの銀行家は追随してロンドンへ移り住んだ。このころ、ナントの王令廃止でフランスで生活したカルヴァン派の商人もあちこちへ亡命していた。その一部はロンドンへ流れた。これにより、ロンドンは金融都市となった。20世紀初頭にニューヨークにその地位が奪われるまで金融の中心であり続けた。
 ウィリアム3世は、この金融都市を利用してイングランド銀行を設立させた。これにより、戦費を国債で調達できるシステムが構築された。この金融力が18世紀の大英帝国の礎となる。

インド インド産綿布ブーム

 17世紀後半、アンボイナ事件で東アジア、東南アジアから撤退。イギリス東インド会社はインド貿易に専念することになった。マドラスボンベイカルカッタに拠点を設けた。そのような中、イギリス東インド会社は大ヒット商品に出会う。インド産綿布である。インド産綿布は飛ぶように売れた。しかし、このブームによってイギリス産の毛織物が売れなくなった。これにより、イギリス東インド会社と農民(ジェントリー)の対立が始まる。
 このころ、ルイ14世もフランス東インド会社を設立。インドに貿易拠点を築いた。これにより、英仏植民地百年戦争が始まる。

アメリ英蘭戦争ルイ14世の台頭

 アメリカでは、中心部は東海岸であった。この地域はオランダとイギリスの植民地人同士が勢力争いを行った。しかし、名誉革命でイギリスとオランダが同君連合になると東海岸がイギリスの植民として確定した。
 そのころ、ルイ14世アメリカへ進出した。しかし、イギリスとオランダがかいたくした東海岸に拠点を置くことはできなかった。そのためフランスは、アメリカ中央部に進出した。ルイジアナである。

 

この頃の日本は

 

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 ルイ14世が活躍するフランスは

 

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