10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。HPを開設しました。https://sekaishiotaku.com/

1750年代のイギリス 七年戦争勃発

 日本は江戸時代中期である。このころ暴れん坊将軍で有名な徳川吉宗が亡くなった。これにより享保の改革が終わった。しかし、この政策は田沼意次に引き継がれる。

 18世紀のイギリスは、フランスと植民地戦争を展開していた。一方で、産業革命も進展していた。

そのような中、1850年代、七年戦争が勃発した。

 

前回の復習

 18世紀は、フランスが太陽王ルイ14世の全盛期から、フランス革命絶対王政が崩壊する激動の世紀である。一方で、イギリス産業革命の世紀でもある。18世紀の情勢を見るうえで重要なことは以下の2点である。めまぐるしく変わる外交関係と植民地の状況である。

 七年戦争を例にみると、外交関係は、イギリス陣営にはプロイセンのみが参加。フランス陣営は、オーストリア、ロシアがあった。植民地の状況は、アメリカではフレンチ=インディアン戦争が、インドではプラッシーの戦いと第3次カーナティック戦争が展開。いずれもイギリスがフランスに勝利した。

 1860年代、産業革命も大きく進展した。製糸業では、ハーグリーヴズのジェニー多軸紡績機やアークライトの水力紡績機が発明された。動力源では、ワットによって蒸気機関が改良。蒸気によって水車を回す技術が発明された。

 今回は、七年戦争の原因と七年戦争における同盟関係の形成過程を見ていきます。

 

ホイッグ党ヘンリーベラム首相

50年 第2次カーナティック戦争勃発(インド)

18世紀のインドは、ムガル帝国の権威がなくなり、その地域の知事(太守)がそれぞれ独自に政治を行うようになった。税金もムガル帝国にではなくその国の太守に治めるようになった。

そのような中、南インドのカーナティック州で新しい太守が誕生した。カーナティック州は、フランス東インド会社の拠点ボンディシェリとイギリス東インド会社の拠点があるボンベイがある。そのため、フランスとイギリスの対立はこの州を中心に引き起こされる。

 新しい太守はフランスの支援を受けて太守となった。これにイギリス東インド会社が反発。カーナティック戦争が勃発した。この戦争には、マイソール王国など南インドの有力国も参戦した。

52年 グレゴリオ暦の導入

 グレゴリウス暦は、16世紀にローマカトリックが、復活祭のずれを調整するために制定した暦である。フランスなど多くの国で採用された。

 しかし、イギリスなどプロテスタント国は、ローマカトリックに反発してユリウス暦を継続して利用していた。しかし、利便性の観点からこの時期にグレゴリウス暦を導入した。当時、イギリス民衆の反発は強く成立までに2年かかった。

 イギリスにとって、ローマカトリックは2つの意味で忌み嫌う対象であった。それは、名誉革命以前の国王がローマ=カトリックを信仰していたこと、そして、この時代の仮想敵国であるフランスもまた、ローマ=カトリック教国である。

54年 第二次カーナティック戦争終結(インド)

 イギリスは、カーナティック戦争に勝利した。これにより、フランス派の太守は解任され、カーナティック州はイギリスの勢力圏となった。

54年 フレンチ・インディアン戦争勃発(北米)

 カーナティック戦争終結すると、フランスとイギリスの対立の舞台は、新大陸アメリカへ移った。

 そのまえに、イギリスとフランスのアメリカ開拓史を見ていく。先にアメリカ植民を始めたのはイギリスである。イギリスは、アパラチア山脈の東側に植民地を開拓した。フランスのアメリカ進出が本格化したのは17世紀後半。太陽王ルイ14世の時代である。この頃には、アメリ東海岸はほとんどイギリスの植民地となっていた。そのため、フランスは、カナダから五大湖(シカゴなど)をとおり、アパラチア山脈の西側で植民地活動を行った。この地域はルイ14世の名をとり、ルイジアナと呼ばれた。

 フランスは、イギリスに故郷を奪われたネイティブアメリカン(インディアン)と同盟。フレンチインディアン戦争を始めた。

ホイッグ党ニューカッスル首相と七年戦争

  フレンチインディアン戦争が勃発する最中、ホイッグ党ベンリーへラム首相は亡くなった。後継についたのは、ニューカッスル首相である。この時、主要閣僚に入ったのが大ピット(フランス革命で活躍する小ピットの父)である。大ピットは、タカ派の政治家として名前が知られていた。

 

外交革命と七年戦争勃発 (マリア=テレジアの怒り)

 七年戦争のきっかけは、40年代に起きたオーストリア継承戦争の報復である。オーストリアハプスブルク家の当主マリア=テレジアは憤っていた。プロイセン王国にシュレジエン工業地帯を奪われたからである。

 

 そのため、マリア=テレジアは驚くべき外交を展開した。フランスとの同盟である。これまでのヨーロッパの主たる戦争は、フランスとオーストリアの間で行われていた。この2か国が初めて手を結んだのである。それも、ヨーロッパの小国プロイセンと戦うためにである。外交革命で、フランスは、オーストリアと東欧で台頭してきたロシアと同盟を締結した。フランスの思惑は当然、イギリスとの戦争に勝つた、めである。この同盟で、ルイ16世とマリーアントワネットは政略結婚を行った。マリーアントワネットは、マリア=テレジアの娘である。

 そして、オーストリア=ハプルブルク家(マリア=テレジア)はプロイセンへ侵攻した。七年戦争の始まりである。

 

ブラッシーの戦い 57年(インド)

 イギリス東インド会社カルカッタに軍事拠点を建設。これにベンガル太守が激怒。ベンガル州のシャンデルナゴルに拠点を置いていたフランス東インド会社とともにイギリス東インド会社を攻撃した。

第3次カーナティック戦争 58年(インド)

 プラッシーの戦いは、南インドへ飛び火した。インドの火薬庫、カーナティック州である。
 これにより、七年戦争は、インド(ブラッシーの戦い、カーナティック戦争)やアメリカ(フレンチ=インディアン戦争)の戦争と連動したすさまじい戦いとなった。

 

ウィリアム=ビット(大ピット)

 七年戦争で、イギリスは劣勢に立たされていた。そのため、ニューカッスル首相は首相を解任させられた。代わりに立ったのが、デヴォンシャー首相である。しかし、この内閣で実権を握ったのは、ウィリアムピット(大ピット)である。彼は当時タカ派の首相として名を成していた。ちなみに、フランス革命で活躍する小ピットの父である。

 ピットは、イギリスの全精力をヨーロッパではなく、インドとアメリカに傾けた。

 

この頃の日本は

 

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 このころのフランスは

 

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 フランスとイギリスの係争地インドは

 

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