日本は江戸時代。暴れん坊将軍で有名な徳川吉宗の時代である。このころ、法令集である公事方御定書が作成された。
このころ、ヨーロッパでは、七年戦争の前哨戦であるオーストリア継承戦争が行われた。
前回までの復習 七年戦争とは
18世紀は、フランスが太陽王ルイ14世の全盛期からフランス革命に至るブルボン朝の衰退の歴史である。そのうえで、重要なポイントは2点である。ヨーロッパの外交関係と海外植民地の状況の把握である。
これを七年戦争に当てはめてみる。七年戦争の外交関係の特徴は、外交革命である。長年の敵、フランスとオーストリアが手を結んだことにある。フランスが支援するオーストリアには、東欧の新興国ロシアが支援した。一方、イギリスは、プロイセンを支援した。海外植民地では、アメリカではフレンチ=インディアン戦争、インドでは、プラッシーの戦いやカーナティック戦争が行われた。
七年戦争の前哨戦 オーストリア継承戦争
オーストリアのハプスブルグ家の家督を女性のマリアテレジアが相続した。これに対し、プロイセンが反発。オーストリア継承戦争が勃発した。フランスは、スペイン継承戦争の因縁があるため、プロイセンを支援。対するイギリスは、オーストリアを支援した。
それ以外の国の大部分は、プロイセン側を支援した。主なプロイセン側の国は、神聖ローマ帝国(ドイツ)の有力諸侯たち(バイエルン公、ザクセン選帝侯など)やスペイン(ブルボン朝)である。
しかし、イギリスはこの戦争に対しては消極的であり、申し訳程度の兵を送るぐらいであった。
この頃の中欧(ドイツ周辺)の様子は
17世紀前半の中欧(ドイツ、オーストリア、チェコなど)は神聖ローマ帝国という一つの連邦国家になっていた。しかし、皇帝の地位は名ばかりの存在で30以上国家が独自に政治を行っていた。
神聖ローマ帝国とは
神聖ローマ帝国は、現在のドイツ、オーストリアの前身の国である。
その起源は9世紀のフランク王国の分裂で成立した東フランク王国である。10世紀、オットー1世が戴冠を受けて西ローマ帝国の後継国となった。
17世紀の三十年戦争で皇帝派が敗北。諸侯(神聖ローマ帝国に中の国の王様)がそれぞれが独自に政治を行っていた。
神聖ローマ帝国の名残は現在でもドイツに残っている。古城街道である。ドイツは日本と同じように各地に城が点在している。これは強い地方分権のあらわれである。それぞれの城に王様が住み、その地域を統治していたのである。当時の日本も、徳川将軍家があったが直轄領以外はそれぞれの大名が独自の政治を行っていた。
オーストリアとは
オーストリアは、ヨーロッパのど真ん中にある国である。オーストリアの語源は東の国という意味である。当時、この国を治めていたのは、オーストリア=ハプスブルク家である。オーストリア=ハプスブルク家は、15世紀以降、神聖ローマ皇帝の地位についていた。しかし、三十年戦争の敗北でドイツ全体への影響力はなくなった。しかし、オーストリアの他、ハンガリー(アジア系騎馬民族のマジャール人)やチェコ(西スラブ系のチェック人)、イタリア北部(ランゴバルド王国)を支配した。その都ウィーンは大いに繁栄した。
プロイセンとは
プロイセンは、ドイツの前身の国である。当時のプロイセンは神聖ローマ帝国の有力諸侯国の一つで、ドイツの北東部に位置した。その起源は11世紀から14世紀の東方植民に当たる。子の東方植民を行ったドイツ騎士団が作った国がプロイセンである。ドイツ騎士団は、13世紀にモンゴルとも戦った。
プロイセンは、地位が低いが農業生産量の高さと強い軍事力で頭角を現してきた。1700年代のスペイン継承戦争で王国に昇格した。
ジェンキンズの耳戦争 新大陸アメリカでスペインと戦う。
オーストリア継承戦争の前年39年、新大陸アメリカでスペインとの戦争が勃発した。戦争の舞台は、ヴァージニアやフロリダなど13植民地の南部である。
ジェンキンズの耳戦争である。その原因は、アヘン戦争と同じ密貿易である。スペインとイギリスで黒人奴隷の上限設定が設定された。しかし、イギリス商人ジェンキンズはこっそりアメリカに奴隷を供給していた。それがスペインに発覚。当然ジェンキンズは拿捕された。当時首相のウォルポールは戦争に消極的であった。しかし、議会に押されて宣戦に踏み切らざる追えなかった。
当時のスペインは
当時、スペインはブルボン朝の時代である。そのため、フランスと連合してアクションを起こすことが多かった。スペインは、アステカ帝国のあったメキシコやインカ帝国のあったペルーを中心に中南米に多くの植民地を持っていた。
パイレーツオブカリビアンと三角貿易
18世紀のカリブ海は、無法地帯である。そのため、カリブ海の商船は、積み荷を守ツため武装化した。武装化した商人の中には、商業をやめて海賊に転職するものも登場した。こうして誕生したのがパイレーツオブカリビアンである。
当時、アメリカで砂糖、綿花、タバコ、コーヒーなどのフランスなどヨーロッパで生産できない農産物を生産していた。(当時、お茶は中国でしか取れないのでアメリカの輸出品には当然含まれない)
ただ、アメリカ農業は致命的な問題点があった。圧倒的な人材難である。そのため人材派遣業が発展した。これが奴隷貿易である。その供給基地になったのは、アフリカ西海岸である。アフリカ西海岸はイスラム圏である。当時のイスラムの考え方では、異教徒は奴隷として扱ってよいものとされた。しかし、イスラム圏における奴隷はヨーロッパ諸国のように非人道的に扱われることはなかった。そのため、マムルークのように奴隷でも国王の地位に就くものもあらわれた。話を本題にもどして、そのた、アフリカでは敗戦国の住人は奴隷にされていた。
15世紀、アフリカ内陸部にはソンガイ王国というイスラム国家が存在していた。この国は、16世紀後半モロッコ軍の侵入により滅亡した。同じころ、アフリカ沿岸部ではポルトガルがアフリカ沿岸部に拠点を築き始めた。ポルトガル商人は、沿岸部の先住民に武器の販売をした。当時流行していた鉄砲である。沿岸部の人たちは、この鉄砲でアフリカ内陸部へ侵攻した。このようにして戦争によって沿岸部の人々は奴隷を獲得した。ポルトガル人はその奴隷を買い取り、スペイン領アメリカへ販売した。
こうして、ヨーロッパから武器や生活用品をアフリカ西岸部に売却。アフリカ静画部の人々は、戦争捕虜をヨーロッパ商人へ売却した。ヨーロッパ商人は、これをアメリカの大農園(プランテーション)へ売却。砂糖や綿花などをかいとりヨーロッパで売りさばいた。これが三角貿易である。この三角貿易でヨーロッパは多くの資本を獲得した。
このころから新しい経済学の考え方が登場した。重商主義である。三角貿易によって、銀鉱山なしに銀を集めるシステムが構築された。すなわち、安く買って高く売ることで銀を集める方法である。この考え方が重商主義である。この考え方は18世紀主流の経済学の考え方で、18世紀後半のアダム=スミスの時代までこの考え方が経済学の主流となった。
また、スペイン王室はあらたの収益源をつくりだした。奴隷への関税である。これがアシエント権である。仕組みはこうであるスペインはスペイン植民地への奴隷供給枠をヨーロッパ諸国へ販売した。このアシエント権を破って拿捕されたのがジェンキンズである。
初代首相ウォルポール退陣
当時、イギリス議会はホイッグ党を仕切っていた。当時の首相はウォルポールである。ウォルポールは平和外交を追及していた。実際、オーストリア継承戦争でも積極的に参加しようとしなかった。しかし、ジェンキンスの耳戦争で多くの軍事費を必要とした。そのため、ウォルポールは像銭踏み切った。これにより、ウォルポールは議会の信任を失い、首相を退陣した。
44年 ジョージ王戦争(北米大陸)
アメリカ13植民地は、カナダに拠点をもつフランスと国境紛争が勃発した。当時フランスは、カナダから、五大湖周辺(シカゴなど)をつうじてアメリカ中央部のルイジアナに拠点を築いていた。そのため、ルイジアナへの玄関口であるカナダは重要な拠点であった。
44年 カーナティック戦争(インド)
フランスとの植民地戦争は、インドでも勃発した。南インドのカーナティック州の勢力争いである。17世紀前半、イギリスはカーナティック州のマドラスに拠点を置いた。一方フランスは、17世紀後半、太陽王ルイ14世時代に同じカーナティック州のボンディシェリに拠点を築いた。44年、ボンディシェリのフランス東インド会社がイギリスの拠点マドラスへ侵攻。カーナティック戦争が勃発した。
45年 ジャコバイトの反乱
オーストリア継承戦争の混乱に乗じて、王党派一部が反乱を起こした。王党派の一部に、フランスに亡命したスチュアート家の復活を願うものがいた。彼らはジャコバイト派と呼ばれた。
しかし、ジャコバイト派の反乱はすぐに鎮圧された。この反乱以降、ジャコバイト派の反乱は発生していない。
48年 アーヘンの和約
オーストリア継承戦争は、オーストリアの敗北で終結した。
(ヨーロッパ)
各国は、マリア=テレジアがオーストリアの家督を継承することを認める。
オーストリアは、プロイセンにシュレジエン工業地帯を割譲する。
(インド)
フランスが占領したムンバイは、イギリスに返還された。
(アメリカ)
フランスと13植民地の国境が画定された。
→ ムンバイの返還の見返りに、イギリスは占領地の一部をフランスへ譲渡した。
イギリスは、スペインからアシエント権(黒人奴隷販売権)の更新が認められた。
→ このアシエント権はのちにスペインに売却された。
この頃の日本は
ライバルのフランスは
カーナティック戦争が行われたインドは