10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。HPを開設しました。https://sekaishiotaku.com/

1820年代のイギリス カニング外交でオーストリアと対立

 1820年代、日本は江戸時代後期。化政文化が花開いたころで、浮世絵などが書かれたのがこのころである。

 このころ、ヨーロッパはナポレオン戦争後のつかの間の平和を享受していた。このころ、イギリスでは、ナポレオン戦争で活躍したトーリ党ジェンキンソン首相の長期政権が続いていた。また、この頃交通革命が起きた。蒸気船や鉄道が登場したのはこの時代である。

 

前回の復習 第一回選挙法改正とホイッグ党グレイ政権

 1830年代、トーリ党のパーマストンカニング派がホイッグ党へ移籍した。これにより、ホイッグ党グレイ政権が樹立。第一回選挙法改正が実現した。

 今回は、パーマストンに外交を教示したカニング首相の外交を見ていきます。

 

交通革命

 18世紀後半から19世紀前半のイギリスは産業革命の時代である。この頃になると、エネルギー源が木炭から石炭に変った。これにより、蒸気機関車や蒸気船などが登場した。交通機関が馬車から蒸気機関車へ、帆船から蒸気船に変った。

 蒸気船の登場により、大砲を積んだ鉄製の軍艦の建造が可能になった。この差が如実に出たのがギリシャ独立戦争である。

 しかし、それを実現するには、高い技術力と豊富な資金を必要とした。これが可能であったの当時、ギリスしかなかった。これが、19世紀中盤のパックス=ブリタニカを実現した。

 一方で、それ以外の国では軍艦の大量製造を可能にするため富国強兵政策を行った。ドイツのビスマルクや日本の明治政府はその一例である。

ジェンキンソン首相の長期政権

 ナポレオン戦争の勝利でジェンキンソン首相は長期政権を築いていた。しかし、27年脳卒中でこの世を去った。この頃になると自由主義的な政策が目立ち始めた。24年には労働組合の結成が容認された。

トーリー党政権

 フランス革命での小ピット首相の活躍によりトーリー党の長期政権が続いていた。昔の王党派で、大地主が支持基盤であった。

ジョージ4世が国王に即位

 20年、ジョージ4世が国王に即位した。1810年頃から前国王ジョージ3世が病気がちであったため、摂政として事実上国王の役割を果たしていた。

 前国王ジョージ3世は、積極的に政治に関与した。しかし、ジョージ4世は政治に興味がなかった。政治は、ジェンキンソン首相に任せっきりであった。

カニング外交と中南米の独立

20年代のヨーロッパ情勢 ウィーン体制

 1820年代の外交関係は、ウィーン体制と呼ばれた。1815年のウィーン会議で成立した2つの同盟が基礎となる。神聖同盟と五国同盟である。神聖同盟は多くの国が参加した神聖同盟で、現代でいう国際連合である。五国同盟は、もともとイギリス、ロシア、オーストリアプロイセン(のちのドイツ)、フランスの同盟である。現代でいう常任理事国といえる。

スペイン立憲革命で五国同盟が崩壊

 スペインは、一時ナポレオンの支配下に入った。ウィーン会議ブルボン朝が復活した。

 22年、スペインで憲法の制定を求めた革命が勃発した。これがスペイン立憲革命である。スペイン皇帝は憲法の制定をいったん認めた。しかし、これに対しフランスが介入した。当時フランスでもブルボン朝が復活。反動政治が行われた。オーストリアメッテルニヒ首相)もこれを支持した。メッテルニヒオーストリア)は五国同盟を動かそうとした。

 しかし、イギリスのカニング外相はこれを拒否。五国同盟はこれにより事実上崩壊した。当時、イギリスは工業製品の輸出先を求めていた。スペインの立憲革命はイギリスの市場拡大につながると思われた。

イギリスの報復戦。中南米の独立

 スペインが立憲革命で混乱しているころ、スペインの植民地であった中南米諸国が次々独立した。この独立を指揮したのは現地に移住した白人たちであった。彼らは、黒人奴隷を使って大規模農場経営を行った。かれらはクリオーリョと呼ばれた。シモン=ボリバルなどの独立運動かが活躍した。

 オーストリアやフランスは、独立戦争に介入しようとした。しかし、イギリスのカニング首相はこれに反発。ヨーロッパは中南米の独立に介入しなかった。このため、多くの国で独立が成功した。アメリカのモンロー教書が出たのもこのころである。

 

27年 カニング首相とカトリック救済法

 ジェンキンソン首相が亡くなると、外務大臣カニング氏が首相となった。このころ、トーリ党はカトリック救済法をめぐり分裂していた。カニング首相はカトリック救済法推進派の急先鋒であった。カトリック推進派はカニング派と呼ばれた。その代表格がパーマストン戦時大臣である。しかし、首相になって間もなく病に倒れ亡くなった。

 しかし、その意思が引き継がれた。28年、カトリック教徒が国会議員など公務員になることを禁止した審査法が廃止された。翌29年にはカトリックに対する宗教差別を禁止した。(カトリック教徒解放法)

イングランド人にとってカトリックとは

 そもそも審査法を制定したのであろうか。審査法が成立したのは17世紀後半のことである。当時のイギリスはクロムウェルの共和政が終わり王政が復活した時代である。当時の国王はスコットランド人で、イングランド人とは違いカトリックを信仰していた。(イングランド人は主にプロテスタントイギリス国教会)を信仰)。当時の国王は反動政治で国民に嫌われていた。その国王はカトリック教徒を官僚にしようとした。これに反発した議会は審査法を制定し、国王がカトリック教徒を官僚にすることをできなくさせた。すなわち、カトリックは悪徳国王の象徴であった。

 もうひとつ、カトリックはフランスで信仰されていた。18世紀、フランスとイギリスは植民地百年戦争が行われていた。カトリックは憎きフランスの象徴であった。

 しかし、国王はプロテスタントのドイツ人に代わり、植民地百年戦争終結カトリック差別の必要性はなくなっていた。

アイルランド人にとってカトリックとは

 アイルランドでは、昔からカトリックを信仰していた。

 アイルランドは17世紀のクロムウェルの侵攻により土地を奪われ、イングランド地主の小作人になった。アイルランドは国の誇りとしてカトリックを信仰し続けた。

28年 ウェリントン首相とギリシャ独立戦争

 カニング首相が亡くなると、ロビンソン首相短期政権を経て、ウェリントン氏が首相になった。ウェリントン首相はナポレオン戦争で軍人として名を挙げた。ウェリントン首相はカトリック救済法には反対の立場をとっていた。

 このころ、ギリシャ独立戦争が勃発した。ウェリントン首相はオーストリアメッテルニヒ外相と連携し、独立阻止に動いた。これに対し、反発したのがカニング派のパーマストンである。

 

 

この頃の日本は

 

sekaishiotaku.hatenablog.com

この頃のフランスは

 

sekaishiotaku.hatenablog.com