今回から、18世紀のイギリス史を見ていきます。イギリス史については18世紀も10年単位でみていきます。
1890年代、日本は江戸時代後期。寛政の改革をすすめる老中松平定信が失脚。徳川家斉の親政が始まる。これにより、江戸幕府は財政は厳しくなるが、江戸の景気を大きく好転した。
この頃、ヨーロッパではフランス革命が勃発。イギリスの若き首相、小ピットはこの対応に苦慮した。
前回までの復習
18世紀のイギリスは
18世紀は頻繁に戦争が行われた。スペイン継承戦争、オーストリア継承戦争、七年戦争、アメリカ独立戦争、そして今回のフランス革命である。その時のポイントは、プロイセンとオーストリアの敵と味方の確認である。18世紀は神聖ローマ帝国の一諸侯に過ぎなかったプロイセン公国が、ウィーン体制で四国同盟に参加するまでの大国になる歴史である。一方で、オーストリア国王は神聖ローマ帝国の皇帝である。しかし、ウィーン体制でこの神聖ローマ帝国は完全に崩壊する。いわばオーストリアの衰退の歴史である。
一方、18世紀のイギリスを見るうえで重要なことは、フランスとイギリスの百年戦争である。この時のポイントは2点である。1つ目はフランスとイギリスのどちらがオーストリアの味方になったのか。もう一つは、インドとアメリカの状況である。この時期のヨーロッパの戦争は同時にアメリカとインドでもイギリスVSアメリカの戦争が行われていた。
フランス革命の復習
フランス革命は、貴族への課税問題を発端に始まった。貴族が平民を議会から追放するとパリ市民が蜂起。バスティーユ監獄を襲撃した。これにより、フランスは立憲君主制になった。その後、パリ市民はヴェルサイユ宮殿を襲撃(ヴェルサイユ行進)。フランス国王ルイ16世は、これに恐怖を感じ国外逃亡を謀るも失敗。(ヴァレンヌ逃亡事件)。これにより、王党派は失脚。ルイ16世は処刑され、共和制へ移行した。その後、ロベスピエールが社会主義政策を行うも失敗。ナポレオンの時代を迎える。
最後に、過去にフランス革命について書いた過去の記事(フランス編)のリンクを貼ったので詳しく知りたい人はこちらを見てください。
若き首相、トーリ党小ピット
当時、イギリスの首相は、ウィリアムピット首相であった。彼はアメリカ独立戦争の講和条約締結後に首相になった。若干24歳の若き首相であった。小ピット首相は当初、フランス革命に対して中立の立場をとっていた。
ルイ16世の処刑と第一回対仏大同盟
フランス革命の最中、ルイ16世は処刑された。これは、ヨーロッパ各国の国王はこれに震え上がった。さらに、フランス革命政府は干渉戦争に向かっていた。実際ベルギー・オランダへの侵攻を検討していた。
これに対し、イギリスの小ピット首相は第一回対仏大同盟が結成された。ターゲットになったオランダをはじめ、ブルボン朝スペイン、オーストリア、プロイセン、ロシアなどである。
しかし、その裏で、旧ブルボン朝フランスの海外植民地を狙っていた。
この第一回対仏大同盟は、オーストリアがナポレオンのフランスに降伏すると解散した。
ナポレオンのエジプト遠征と第2回対仏大同盟
ナポレオンは、イギリスを警戒していた。そのため、イギリスとインドを結ぶエジプトへ遠征を行った。
これに対し、小ピットは第二回大同盟を結成した。
インド・アジアでは
七年戦争で、インドは、イギリスの勢力圏となっていた。しかし、アジアで覇権を握っていたのはオランダである。
ナポレオン戦争が始まると、オランダはフランスの支配下になった。小ピットは旧オランダ植民地を攻撃した。
インド洋の入り口、南アフリカのケープタウンを占領した。これは、ウィーン会議で追認された。
このころ、小ピットは清王朝にマカートニーを派遣した。当時の清王朝は乾隆帝の全盛期である。マカートニーは乾隆帝に謁見はできたものの開国することはできなかった。
アメリカでは
フランス革命は、アメリカ独立戦争の報復戦争の側面を持っていた。当時、イギリスはカナダを植民地とし、あわよくばアメリカ奪還を狙っていた。第一回対仏大同盟が結成されると、中米のフランス植民地を攻撃した。
この頃の日本は
フランス革命とは
マカートニーが向かった清王朝は