10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。HPを開設しました。https://sekaishiotaku.com/

1800年代のイギリス ナポレオン戦争と小ピット首相の死

 1800年代、日本は江戸時代後期。このころヨーロッパはナポレオン戦争の真っただ中であった。

 当時のイギリスの首相は、小ピットである。小ピット首相は、オーストリアやロシアと何度も同盟を結び、ナポレオンに抵抗し続けた。また、この時、海外植民地を多くもつスペイン・オランダがナポレオンの支配下に入った。この隙に、イギリスはオランダの植民地を奪っていた。一方、スペイン植民地では独立運動が起こり始めていた。

 

 前回までの復習 19世紀のイギリスとは

 19世紀のイギリスは、パックス=ブリタニカの絶頂期にあった。二大政党制の確立により大きな革命や内戦は起こらなかった。一方で、フランスでは、フランス革命七月革命二月革命と何度も革命が発生し、パリでは多くの血が流れた。

 また、19世紀のイギリス政治テーマは2つあった。貿易政策である。保護貿易自由貿易かである。もう一つは、アイルランド問題である。これらの問題を顕著にしたのがナポレオンであった。

小ピット、アイルランド問題で退陣

 フランス革命期のイギリスの首相はトーリ党のウィリアムピット(小ピット)が首相を務めていた。

 フランスのナポレオンは、アイルランドの反乱を支援していた。小ピットはアイルランドの内戦を防止するため、植民地であったアイルランドを対等な関係とした。グレートブリテンおよびアイルランド王国の成立である。これにより、アイルランド人に参政権が与えられた。しかし、アイルランド人は選挙権は持てたが国会議員になることはできなかった。それは審査法である。アイルランド人はカトリックを信仰していた。審査法によって。イギリスではプロテスタントイギリス国教会)しか国会議員になれなった。小ピットは、この審査法の廃止を検討していた。

 これに対し、当時の国王ジョージ3世は反発。国王の信認を失い、小ピットは辞任した。

01年 トーリ党ヘンリーアディントン首相、ナポレオンの講和

 小ピット首相が失脚すると、同じトーリ党のヘンリーアディントンが首相になった。トーリ党のヘンリーアディントン首相は、ナポレオンと講和した。(アミアンの和約)これにより第二回対仏大同盟は解散した。

04年 トーリ党ウィリアムピット首相(小ピット首相)が復活

 04年、ナポレオンが国民投票でフランス皇帝になった。イギリス国王ジョージ3世はこれに警戒をかんじ、小ピットを首相に戻した。
 小ピット首相は、第四回対仏大同盟を結成した。イギリスはトラファルガー海戦に勝利。ナポレオンはイギリスの侵攻をあきらめた。一方で大陸ではナポレオンは強かった。アウステルリッツ三帝会戦でロシア・オーストリア連合軍に勝利した。小ピットはアウステルリッツ三帝会戦の敗北の報にショックを受け、病に伏せた。翌06年、小ピットは亡くなった。これにより、第三回対仏大同盟は崩壊した。

経済制裁合戦 大陸封鎖令

 小ピット首相が亡くなると、小ピットの従弟でホイッグ党のグレンウィルが首相になった。グレンウィル首相は奴隷貿易を禁止した。翌07年、元ホイッグ党ポートランド首相が挙国一致内閣を結成した。(実態はトーリ党政権)

 06年になると、ナポレオンはイギリスへ経済制裁を仕掛けた。大陸封鎖令である。これに対し、イギリスも海上封鎖を仕掛けた。これにより、イギリスの農産物価格は高騰した。都市の人々の生活は苦しくなったが、地主層は保護貿易で儲けた。このことが穀物法制定の要因になる。

 

08年 フェートン号事件(日本)

 ナポレオンは、オランダ・スペインを征服した。当時オランダは、インド洋交易を独占し、南アフリカや東南アジアに拠点を置いていた。また、日本の江戸幕府とも交易を行っていた。また、スペインは、中南米に膨大な植民地を保有していた。ナポレオンは、兄弟をオランダ王とスペイン王につけた。

 イギリスは、スペインの反ナポレオン運動を支援するとともに、オランダのアジア植民地を攻撃した。ケープタウン南アフリカ)やスリランカを占領。これらの地域は15年のウィーン会議でイギリス植民地として認められた。

 イギリスはこの時、日本の長崎も攻撃した。フェートン号事件である。

中立政策をとるアメリカ、ジェファソン大統領

 アメリカはフランス革命直前の1870年代にイギリスから独立したばかりである。そのため、米英の関係はよくない。一方で、独立を支援してくれたフランスの関係は良好である。当時のアメリカは東岸のⅠ3州のみで、中部から西は、まだフランス、スペインの領土であった。

 19世紀に入ると、3代大統領ジェファソン大統領が就任した。フランス(ナポレオン皇帝)は、アメリカ(ジェファソン大統領)にフランス領ルイジアナアメリカ中央部)を売却した。ナポレオンはイギリス軍の強さを十分認識しており、アメリカ大陸の防衛は困難だと判断していた。当時、イギリス軍はいつでもアメリカ大陸へ攻撃できる準備は整っていた。

 アメリカは、当初ナポレオン戦争に対して中立の立場をとっていた。06年ナポレオンはイギリスに対し経済制裁(大陸封鎖令)を出した。これに対し、小ピットはフランスに対し経済封鎖を行った。これにより、アメリカ船はフランスに入ることができなくなった。

 このころ、アメリカは中立派と好戦派に分かれていた。ジェファソンは中立政策をとっていた。しかし、08年の大統領選挙で好戦派のマディソン大統領が誕生。

この頃の日本は

 

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 小ピットが戦ったナポレオンは

 

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