1730年代のイギリス 産業革命とウォルポールの平和
日本は江戸時代、暴れん坊将軍で有名な徳川吉宗の時代である。このころ冷夏によって享保の大飢饉が発生した。
そのころ、イギリスは、内閣制度が確立した。ホイッグ党ウォルポール首相である。ウォルポールの平和外交を進めた。このころ、産業革命がおこった。
前回の復習 1840年代 オーストリア継承戦争
18世紀は、太陽王ルイ14世の全盛期からフランス革命までのフランス王家転落の歴史である。そのうえで、注目すべき点は2点である。外交関係と植民地の状況である。
これを1840年代のオーストリア継承戦争に当てはめてみる。外交関係では、フランスがプロイセンを支援してオーストリア包囲網を形成した。ここに参加したのはフランス、プロイセンの他、スペイン、新鮮ローマ帝国の有力諸侯(バイエルン、ザクセンなど)が参加した。一方、イギリスは、ブルボン朝をけん制するためオーストリアを支援した。
植民地では、新大陸インドでは南ではスペインとジェンキンスの耳戦争、北ではフランスとジョージ王戦争が展開されていた。インドではカーナティック戦争が勃発した。
産業革命のはじまり
18世紀は、ブルボン朝フランスの転落の歴史であるとともに、イギリスにとって発明ラッシュの世紀である。この発明ラッシュのことを産業革命という。
ジョンケイの飛び杼で、綿工業は飛躍的に発展
産業革命の始まりは、ジョン=ケイの飛び杼(シャトル)である。これにより織物の生産量が爆発的に増加した。
このころ、イギリスではインド産綿布禁止令が出されていた。イギリス毛織物業者による保護貿易政策である。綿布がない時代のイギリス人はセーターなどの毛織物を肌着なしで身に着けていた。その着心地の悪さは想像できるだろうか。そのため、多くのイギリス人は綿製の洋服を待ち望んでいた。それを可能にしたのがジョン=ケイの飛び杼(シャトル)である。シャトルの発明により多くの毛織物業社は綿織物業へ転換した。
これにより、原材料である綿糸の重要が爆発に増加した。そのため、このあと紡績(綿花から綿糸)に関する発明がどんどん出てくる。一方で綿花の需要も爆発的に増加した。イギリス東インド会社はインドで綿花を買いあつめ、綿布を売りまくった。また、綿花の生産に適したアメリカ植民地南部へ移民した。
ノンフォーク農法で、農業生産性が高まる。
このころ、農業の世界も大きく変化した。このころ、11世紀主流であった三圃制から、ノンフォーク農法へ移行した。これにより、農業生産性は飛躍的に増加した。これにより、農家の数はより少なくて済むようになった。そのため、多くの農園領主はリストラされた。リストラされた農民は都市労働者になっていった。
イギリス初代首相 ホイッグ党ウォルポール首相
政治面では、内閣制度が確立された。内閣制度とは、首相が国王に代わり政治を取り仕切る体制である。ただ、当時の内閣は、議会ではなく国王に忠誠を誓った。
当時、イギリスはハノーヴァー朝の時代であった。国王はドイツからイギリスにきたばかりでイギリス政治に興味はなかった。そのため、政治はウォルポールに任せっきりであった。
ウォルポール首相は、当時主流であった重商主義政策を推し進めた。重商主義政策とは輸出を促進し、輸入を抑えることで銀をイギリスに集める政策である。その一つが、インド産綿布の輸入規制である。
この頃の日本は
このころのフランスは
このころのインドは