1970年代のトルコ・ギリシャ ギリシャの民主化と第四次中東戦争
1970年代、日本は高度成長期が終わり、経済停滞期に入っていた。中東では第四次中東戦争が発生。これにより、オイルショックが発生し、経済停滞が深刻化した。
この頃、トルコはキプロス問題で国際的に孤立。それにより経済が悪化していた。一方、ギリシャは、王政が崩れ共和制へ移行した。
前回の復習 1980年代のギリシャ・トルコ
1980年代前半、トルコでは軍事クーデターが発生した。一方、ギリシャはECに加盟。その両国の間での懸念材料は、キプロス問題を抱えていた。
1970年代のトルコ
反西欧、反世俗化とイスラームへの復帰を掲げる政党が台頭してきた。その背景には、キプロス問題で軍事費がかさんできたことが挙げられる。また、キプロス問題でアメリカとの関係も悪化していた。
トルコ、キプロス侵攻
キプロス島は、東地中海に浮かぶ小さな島である。60年にイギリスから独立した。住民は約80%がギリシャ系、約20%がトルコ系である。独立を果たした60年代からギリシア系住民とトルコ系住民の武力衝突が頻発した。
74年、キプロスの武力衝突にたいし、ギリシャの軍事政権が武力介入した。これにたいし、トルコもキプロスへ武力介入を行った。
ついに、トルコ軍はキプロス島北部を制圧。北キプロス・トルコ共和国の独立を宣言した。現在、この国を承認しているのはトルコのみである。
ギリシャの民主化
ギリシャの開発独裁
70年代まで、ギリシャ王国は軍部独裁が行われていた。しかし、マーシャルプランによる経済支援や外国資本の積極的な誘致、公共事業による国内インフラの整備により、高い成長率を維持していた。これはギリシャの奇跡と呼ばれる。
しかし、70年代に入ると西側諸国に世界的な不況が襲った。ギリシャもその例外ではなかった。そのため、学生デモが頻発した。
ギリシャ共和国成立
キプロス問題で軍事政権は国民の信頼を失った。これにより軍事政権は倒れ、カラマンリス首相が誕生。国民投票で、王政は停止、共和制へ移行した。
その後の総選挙で、カリマンリス首相率いる親米派の新民主主義党が与党になった。
ユーゴ、集団指導体制へ
ギリシャの北、ユーゴスラビアはどのような状況であったのとだろうか。70年、ユーゴスラビアの北のクロアチアで大規模なストライキが発生。ティトーはこの運動を抑制した。一方で、これをきっかけに民主化運動を進めた。74年、憲法を改正。ティトーは終身大統領になるとともに、集団指導体制へ移行した。
第四次中東戦争と石油危機
シリアとエジプトで親ソ政権
トルコの南のシリアで無血クーデターが発生。バース党アサド政権が成立した。アサド政権は親ソ政権であった。当時のソ連はブレジネフ書記長の時代である。アサド政権は現在でも続いており、ロシアはアサド政権を支援している。
同じころ、エジプト(アラブ連合国)ではナセル大統領が死去。サダト大統領が誕生。サダト大統領(エジプト)は、アサド政権(シリア)と同様にソ連と友好協力条約を締結した。また、国名をアラブ連合国からエジプト=アラブ共和国に変更した。
なぜ、シリアとエジプトは親ソ政権になったのだろうか。アメリカはベトナム戦争の泥沼化でかなり弱っていた。そのため、インドや中東諸国はソ連との連携を強めていた。
第四次中東戦争へ
ソ連と友好関係をむすんだシリアのアサド政権とエジプトのサダト政権は、再びイスラエルへ侵攻した。第3次中東戦争で失った領土の奪還のためである。
第一次オイルショック
第四次中東戦争では、秘密兵器を利用した。これはOPECによる石油価格の引き上げである。これにより、先進諸国では第一次オイルショックが発生した。低成長期に入った西側諸国に大きな打撃を与えた。この打開策としてサミットが開催された。
レバノン内戦 (イスラエルとシリアの代理戦争)
69年、イスラエル内のイスラム勢力独立運動(PLO)でアラファト議長が登場した。当時、PLOはヨルダンに拠点を置いていた。
75年、PLOは、ヨルダンの隣国のレバノンに拠点を変えた。ここでPLOとキリスト教勢力の内戦が勃発した。PLO側にはシリア(アサド政権)が、キリスト教勢力側にはイスラエルがそれぞれ支援した。これにより、レバノンの内戦は長期化した。
エジプト=イスラエル平和条約
4度にわたる中東戦争はエジプト財政を苦しめた。エジプト財政を回復させるためにはアメリカの援助を必要としていた。そのため、サダト大統領は大胆な外交政策の転換をはかった。
76年、エジプトソ連との友好条約を破棄した。そして、アメリカ民主党のカーター大統領の仲介で、エジプトとイスラエルの平和条約が締結された。
エジプトの単独講和にシリアのアサド政権は激怒。エジプトはアラブ諸国から孤立する。
70年代末の中東
イラン革命
この頃、イランではイラン革命が発生。親米派のパフレヴィー朝が崩壊した。イラン=イスラム共和国が成立した。イラン=イスラム共和国は国内の油田の国有化を実施。イランは国際的に孤立した。
イラン革命で、イランが中東の反ソ軍事同盟CENTOを脱退。トルコやパキスタンもこれに追随。これにより、CENTOは解散した。
一方、キプロス問題で悪化したトルコとアメリカの関係は、イラン革命によって
改善された。
トルコで軍事クーデター
70年代の西欧諸国の不況と軍事費の増大(キプロス問題)でトルコ経済は悪化した。そのため、トルコでは左翼や右翼のテロが頻発した。そのような中、80年、軍事クーデターが発生。これにより憲法改正が行われ、治安と経済が改善された。
この頃、日本は
イラン革命とは
このころの冷戦状況は