1830年代のトルコ・ギリシャ エジプト=トルコ戦争
1830年代、日本は江戸時代後半。化政文化が花開いたころである。
このころ、オスマン帝国は、エジプトの独立戦争に奔走していた。20年代のギリシャ独立戦争、30年代のエジプト=トルコ戦争で、ヨーロッパの進歩を目の当たりにした。これが、40年代の第一次タンジマートへとつながる。
前回の復習 タンジマート
20年代のギリシャ独立戦争、30年のエジプト=トルコ戦争で、オスマン帝国はヨーロッパの強さを目の当たりにした。この差を導いたのは紛れもなく産業革命である。イギリスは10年代に蒸気船を発明。風力を必要としない船がオスマン帝国に脅威を与えたのである。
この結果を見て、改革の重要性を再認識した。それがタンジマートである。今回と次回で、タンジマートの必要とする2つの戦争を見ていきます。
30年、ロンドン会議
20年代のギリシャ独立戦争が終結。オスマン帝国は、ギリシャの独立とセルビアの自治を認めた。ちなみに、この会議でベルギー(南ネーデルランド)がオランダから独立した。
この時、オスマン帝国は、エジプト提督ムハンマド=アリーに地中海のクレタ島とキプロス島を与えた。
第一次エジプト=トルコ戦争
エジプト提督ムハンマド=アリーは、シリアの行政権を求めてオスマン帝国へ侵攻した。
オスマン帝国は、これに対抗するためロシアに支援を要請した。その見返りとしてオスマン帝国が提供したのが黒海と地中海を結ぶダーダネルス=ボスフォラス海峡の航行権であった。
これは、イギリスを刺激した。イギリスとフランスが仲介に入り第一次エジプトトルコ戦争は終結した。オスマン帝国は、シリアの行政権をムハンマド=アリーへ譲渡した。
第2次エジプト=トルコ戦争
オスマン帝国マフムト2世は、シリア奪還を目指してエジプトへ侵攻した。しかし、ムハンマド=アリーはこれを返り討ちにした。これに危機感を抱いたのは、イギリスであった。イギリスは、ロシア、プロイセン、オーストリアとともに
フランスはアルジェリアの保護の見返りにムハンマド=アリーを支援していた。しかし、エジプトの敗北が濃厚になると支援をストップした。
すべてのことは、ロンドンで決まる。Ver2
列強は再びロンドンに集まった。参加したのは、オスマン帝国の他に、イギリス、オーストリア、プロイセンとロシアであった。敗戦国フランスは呼ばれなかった。
オスマン帝国は、シリアの奪還に成功したものの、エジプトの独立(正確にはムハンマド=アリーのエジプト提督の世襲権)を認めた。
タンジマートへ
39年、スルタンのマフムト2世が亡くなると改革(タンジマート)が始まる。タンジマートとは、教科書的には西洋化政策といわれている。ただ、この政策の最大の目的は宗教差別の撤廃である。バルカン半島にすむキリスト教徒への権利拡大であった。
この頃の日本は