1910年代最大最悪の出来ことは第一次世界大戦である。この戦争にオスマン帝国に敗北。これによりオスマン帝国は滅亡した。以後、中東地域は現在まで多くの国が分裂し、統一国家は登場していない。
前回の復習 トルコ革命
第一次世界大戦でオスマン帝国は滅亡。この時代から、バルカン(ギリシャ)、トルコ、中東はそれぞれ別々の道を歩むことになる。バルカン半島ではユーゴスラビアが建国。中東はサイクス=ピコ協定にもとづいてフランスとイギリスが統治した。
トルコでは、オスマン帝国が降伏後にムスタファ=ケマルらが徹底抗戦を続けた。これにより誕生したのが現在のトルコ共和国である。
第一次世界大戦の構図
第一次世界大戦は、イギリス陣営(三国協商)とドイツ陣営(三国同盟)の総力戦である。
イギリス陣営には、三国協商のフランスとロシアの他、日英同盟締結中の日本、未回収のイタリア問題で三国同盟を離脱したイタリアが参戦した。
一方、ドイツ陣営には、三国同盟のオーストリア=ハンガリー帝国が参戦した。
第一次世界大戦は、女性や植民地を巻き込む総力戦となった。まず、この戦争から離脱したのがロシアである。ロシア革命が発生して単独講和を行った。その後、ドイツでも革命が勃発。イギリス陣営(三国協商)側の勝利で終結した。
第一次世界大戦が終結すると戦勝国であるイギリス、フランス、日本、イタリアを常任理事国とした国際連盟が結成された。
ヨーロッパの火薬庫バルカン半島
第一次世界大戦前のバルカン半島
バルカン半島はもともと、オスマン帝国の領土であった。しかし、1820年代のギリシャ独立をきっかけにバルカン諸国がオスマン帝国から独立した。
当時バルカン半島には5つの国があった。南部(エーゲ海側)のギリシャ、西部(アドリア海側)のモンテネグロとセルビア、そして東部(黒海沿岸)のルーマニアとブルガリアである。
これを取り囲むように3つの帝国が存在した。南のオスマン帝国と北東のロシア帝国、そして、北西にあるオーストリア=ハンガリー帝国である。
第一次バルカン戦争 オスマン帝国 VS バルカン同盟
オスマン帝国は、北アフリカのリビアをめぐりイタリアの信仰を受けた。イタリア=トルコ戦争である。オスマン帝国の混乱を受けて、バルカン半島西部のアルバニアがオスマン帝国に対して独立運動を開始した。バルカン半島のセルビア・モンテネグロ・ギリシャ・ブルガリアはバルカン同盟を結成。オスマン帝国に宣戦布告した。
オスマン帝国は、第一次バルカン戦争に敗北。ついにバルカン半島から撤退した。当時バルカン半島に持っていたのは、バルカン半島南部のアルバニアとマケドニアであった。マケドニアは、セルビア・ギリシャ・ブルガリアで分割することとなった。
第二次バルカン戦争 ブルガリア vs セルビア・ギリシャ
第一次バルカン戦争で獲得したマケドニアの分割でブルガリアとセルビア・ギリシャが対立。第二次バルカンっ戦争が勃発した。セルビア・ギリシャがこの戦争に処理した。
この戦争により、バルカン諸国の構図はこうなった。ロシアと同じイギリス陣営(三国協商)には、セルビア・モンテネグロ・ギリシャ・ルーマニアがついた。一方、ロシアと対立するドイツ陣営(三国同盟)には、ブルガリアがついた。
オスマン帝国の周辺の大国は、どのような構図になったのだろうか。オスマン帝国とオーストリア=ハンガリー帝国はドイツ陣営についた。ロシア帝国はイギリス陣営についた。
サラエボ事件で第一次世界大戦勃発
オーストリア=ハンガリー帝国は、バルカン北東部のボスニアヘルツェゴビナを併合していた。セルビアの人々はこれを快く思っていなかった。そのような中、オーストリア=ハンガリー帝国皇太子夫妻がボスニアヘルツェゴビナの州都、サラエボを訪問。このとき、セルビアの青年に暗殺される。
オーストリア=ハンガリー帝国は、すぐさまセルビアへ宣戦布告した。第一次世界大戦へ突入した。
3つの帝国の崩壊とユーゴスラヴィアの成立
第一次世界大戦で、バルカン周辺の3つの帝国が崩壊した。ロシア帝国、オスマン帝国、そしてオーストリア=ハンガリー帝国である。
かわりに、発言力を高めたのは、セルビア人であった。セルビアはバルカン半島西部を拠点とする民族である。セルビアは、オーストリア=ハンガリー帝国から独立したクロアチアやスロベニアなどとともにユーゴスラビアを建国した。また、ルーマニアやチェコスロバキアと軍事同盟を締結した。
オスマン帝国から見る第一次世界大戦
青年トルコ政権と3B政策
第一次世界大戦前のオスマン帝国は、青年トルコ革命によって混乱をしていた。この混乱に乗じて、周辺諸国がオスマン帝国を攻めた。オーストリア=ハンガリー帝国はボスニアヘルツェゴビナを併合を行い、バルカン半島東部のブルガリアは独立。クレタ島ではギリシャ併合への暴動が勃発した。
オスマン帝国はドイツ帝国と連携して3B政策を展開していた。3B政策とは、ベルリンからビザンティウム(イスタンブール)を経由し、バグダードを通りペルシア湾へ出る
鉄道建設を行う政策である。
この政策は2つの国を刺激した。ロシアとイギリスである。ロシアは南下政策を展開。地中海へ出るため、バルカン半島やイスタンブールに強い関心を持っていた。また、イギリスは3C政策の一環としてカルカッタ(インド)とカイロ(エジプト)を陸路で結ぶことを考えていた。その陸路にはバグダード(イラク)が存在した。
バルカン戦争で、バルカン半島から撤退
この流れは、10年代に入っても変わらなかった。イタリアは北アフリカのリビアへ侵攻した。バルカン半島西部のアルバニアで独立運動が展開された。これに、セルビアなどのバルカン同盟もオスマン帝国へ宣戦。第一次バルカン戦争が勃発した。
第一次バルカン戦争は、オスマン帝国の敗北で終結。オスマン帝国は、アルバニアの独立を容認するとともにマケドニアを放棄した。これにより、オスマン帝国はバルカン半島から完全に撤退した。
第二次バルカン戦争では、セルビアとともにブルガリアを侵攻した。
第一次世界大戦ではドイツ陣営で参戦
オスマン帝国は、第一次世界大戦ではドイツ陣営で参戦した。イギリス陣営はこれに抵抗するため周辺諸国を利用した。植民地であるエジプトとインド(ペルシャ)を使って独立運動を展開するともに、バルカン半島ではセルビアなどのバルカン同盟を利用。南のアラビアでは、アラブ人に独立運動を仕掛けた。その中心人物がハーシム家であった。
イギリスの三枚舌外交
イギリスの三枚舌外交の舞台は、オスマン帝国下のアラビアであった。イギリスは、アラブ人のハーシム家にアラブの独立を約束をした。一方で戦費調達のため、イギリスのユダヤ人資本家ロスチャイルド家向けにイスラエルにユダヤ人国家を作ることを約束した。さらに、フランス・ロシアとサイクス=ピコ秘密協定を締結。
第一次世界大戦が終結すると、中東はサイクス=ピコ協定に基づいてイギリスとフランスに分割された。
トルコ革命はこうして始まった。
18年、イスタンブールの青年トルコ政権がイギリス陣営に降伏した。しかし、これに抵抗勢力があった。トルコ東部にいたムスタファ=ケマルである。このイギリス陣営への徹底抗戦がトルコ革命につながる。
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この頃の日本は
このころのロシアは
このころのフランスは