1840年代のトルコ・ギリシャ キリスト教徒にやさしい政治(タンジマート)
1840年代、日本は江戸時代末期。清王朝のアヘン戦争で揺れていたころである。
このころ、オスマン帝国はエジプト=トルコ戦争への反省を踏まえ、改革を断行した。タンジマートである。
前回の復習 クリミア戦争
ロシア帝国は不凍港を求めていた。その一つは、黒海からダーダネルス=ボスフォラス海峡をこえて、地中海を抜けるルートであった。そのため、バルカン半島やオスマン帝国に強い関心を思っていた。
48年革命(三月革命)でオーストリアが混乱すると、ロシアはバルカン半島とオスマン帝国へ侵攻した。クリミア戦争である。
エジプト=トルコ戦争の敗北をうけてキリスト教徒優遇政策
39年、スルタンのマフムト2世が亡くなる。跡を継いだのがアブデュル=メジト1世がスルタンに即位した。
アブデュル=メジト1世は、エジプト=トルコ戦争の敗北を受けて、バルカン半島内のキリスト教徒への配慮の必要性を感じた。そのため、イスラム教徒(ムスリム)と非イスラム教徒の差別撤廃を目指した。これが第一次タンジマートである。
しかし、この第1次タンジマートは、バルカン諸国の独立機運を高めた。これが50年代のクリミア戦争へつながる。
この頃から、ヨーロッパの工業製品の流入が加速した。これにより国内産業は大きな打撃を受けた。オスマン帝国は外国資本の従属を促す結果になった。一方で、イスラムによる統治から法治国家への移行が進んだ。そのため、現在のトルコは他のイスラム国家に比べイスラム色が薄い。
48年革命でパワーバランスが大きく変化
オスマン帝国は、バルカン半島の諸民族の独立運動を警戒していた。これを裏で操っていたのがロシア帝国である。ロシアは、バルカン半島の独立運動を支援して地中海への進出を目論んでいた。(南下政策)
しかし、ロシア帝国は簡単に独立運動を支援することはできなかった。それはオーストリア(ハプスブルグ家)の存在である。オスマン帝国は、同じ多民族国家のオーストリアを利用してロシアをけん制していた。
しかし、48年大きな事件が勃発した。48年革命の一つ、オーストリア三月革命である。この三月革命によって、オーストリアは大きく国力を落とす。これにより、ロシアとオスマン帝国のパワーバランスがくずれ、クリミア戦争へとつながる。
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