10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

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紀元前1世紀のイギリス カエサルを撃退するブリトン人

 紀元前1世紀、東アジアは漢王朝の時代。前漢武帝が活躍していたころである。この頃、ヨーロッパ(ローマ帝国)では内乱の1世紀といわれる内紛が絶えない時代を迎えていた。

 

 前回までの復習 ローマ帝国とイギリス

 イギリスは、1世紀にローマ帝国の属州になった。ローマ帝国はロンドン(当時の呼び名はロンドニウム)を拠点にイギリスを支配した。この時にローマ風建築物が各地に建てられた。この支配は4世紀まで続いた。

 今回は、紀元前1世紀のカエサルのイギリス遠征とカエサルの歴史を見ていきます。

カエサル共和制ローマ

内乱の1世紀とは

 共和政ローマは、2世紀までに北アフリカカルタゴギリシャマケドニアなどを破り、地中海の制海権を獲得した。これにより、多くの領土と戦争奴隷が共和政ローマにもたらされた。それは一部の貴族に独占された。これらの貴族は多くの土地と戦争奴隷を使った大規模農園(ラティフンディア)を経営した。これにより、穀物価格は暴落。従来の農民は失業した。そのため、失業問題が当時の共和政ローマの問題であった。

 この問題は、2つの派閥対立に発展した。平民派と門閥派である。平民派とは、失業者対策としてラティフンディアを制限しようとする勢力である。一方で、門閥派はそのラティフンディアの制限に反発する勢力である。元老院議員などラティフンディア経営者が多い。この2つの派閥対立が「内乱の1世紀」と呼ばれる。

カエサルの生い立ち

 カエサルは平民派の政治家として出世した。しかし、門閥派スラが実権を握ると平民派は不遇の時代をむかえる。それは、カエサルも例外ではなかった。スラが引退すると再び平民派が復活した。カエサルは、スペイン(ヒスパニア)総督に就任。これにより多くの富を蓄える。カエサルは、この富を使って、ローマでサーカス(見世物)を何度も無料で開いた。いわゆる「パンとサーカス」で人気を高めたのである。しかし、多くの資金を「パンとサーカス」に使ったためカエサルと莫大な借金を背負っていた。

第1回三頭政治

 平民派のカエサルは、門閥派から転身したポンペイウスクラッススとともに三頭政治を開始した。三頭政治トロイカ体制といわれることもある。ポンペイウスは軍人で政治家。クラッススは富豪であった。余談だが、クラッスス三頭政治を行う際にカエサルの莫大な借金を肩代わりした。

 この三頭政治によって、カエサルは念願のコンスル(現在でいう大統領)に就任することができた。そして、平民派の悲願である農地法(ラティフンディアの制限)を成立させた。

 カエサルは、ガリア(北フランス)方面の軍事司令官を担当、ポンペイウスヒスパニア(スペイン)総督を担当、クラッススはパルティア(ペルシア)方面の軍事司令官を担当した。

カエサルガリア遠征

 カエサルは、ガリア(北フランス)へ向った。ガリアには2つの敵が存在した。ドイツのゲルマン民族とイギリスのブリトン人である。カエサルは、ライン川を渡りゲルマン民族を破った。しかし、一進一退の攻防は続き、ライン川ローマ帝国ゲルマン民族の国境となった。ライン川の語源はローマ帝国の国境の川という意味になる。

 カエサルは、イギリスへも侵攻したが、ブリトン人がすべて撃退。イギリスに拠点を築くことはできなかった。

 カエサルは、当時の戦闘の様子やガリアの人々の生活を『ガリア戦記』としてまとめている。

三頭政治の崩壊で、共和政ローマの侵攻が止まる

 三頭政治の時代は長くは続かなかった。きっかけは、クラッススの戦死である。クラッススは一番の強敵パルティア(イラン)との戦争に当たっていた。無理な戦争によって敗戦。クラッススは戦死した。

 当時、ローマに残っていたポンペイウスは、政治的実権を握ろうとカエサルの失脚を画策した。そして、門閥派(元老院)と手を組んだ。三頭政治の崩壊である。

 カエサルは、急遽ローマへ帰還した。ローマの手前にルビコン川という小さな川があった。その手前でカエサルは熟慮した。ポンペイウスに従うべきか、ポンペイウスを打つべきか。そして、カエサルは決断した。この時、カエサルは言った。「賽は投げられた」と。カエサルは、ポンペイウスを討つことを判断した。ここから、カエサルポンペイウスの内乱が始まる。この続きは、フランス編でお楽しみください。

 これにより、共和政ローマのイギリス侵攻は止まったのである。

ブリトン人とガリ

 北フランス(ガリア)やイギリスでもともと生活していたのは、ケルト人であった。ケルト人は多くの民族に分かれていた。それは、以下のとおりである。

次回は、ついにイギリス編最終回になります。お楽しみに。

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この頃のローマ帝国

 

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 このころの東アジアは

 

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