1800年代のオスマン帝国 ナポレオンとムハンマド=アリー
1800年代、日本は江戸時代後期。250年にわたる泰平な世を満喫していた。このころ、ヨーロッパではナポレオンがヨーロッパ各地へ遠征をしていた。その中にはオスマン帝国(エジプト)も含まれていた。
19世紀のオスマン帝国
オスマン帝国は、19世紀をかけて領土の大部分を失った。19世紀末には「瀕死の病人」を呼ばれるまでに至った。そのきっかけは19世紀前半のギリシア独立戦争とエジプト=トルコ戦争である。19世紀後半になると、イギリスの進出やロシアの大国化でさらにオスマン帝国は弱体化した。
一方で、オスマン帝国から独立したバルカン半島をめぐり、ヨーロッパ間で勢力争いがおこなわれた。「東方問題」である。紛争が絶えないバルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれた。この地域をめぐり20世紀初頭に第一次世界大戦が勃発する
ナポレオンのエジプト遠征
19世紀末のヨーロッパをフランス革命抜きで説明することは不可能だろう。フランス革命によって登場したのが、ナポレオンである。19世紀末、ナポレオン最大の敵はイギリスであった。そのため、イギリスとイギリスが植民地展開しているインドの中間点であるエジプトを攻撃した。
18世紀のエジプトは、オスマン帝国が支配していた。オスマン帝国は、フランスとイギリス、オランダとカピチュレーションを結び自由な貿易が行われていた。オスマン帝国は、エジプトの統治をマムルーク(トルコ系軍人)に任せていた。現地のアラブ人は、マムルークの圧政に苦しんでいた。
ナポレオンは、エジプトのマムルーク軍を破り、カイロへ入城した。これに危機をおぼえたのがイギリスのピット首相である。ピット首相は第二次対仏大同盟を結成。オスマン帝国はこれに参加した。ピット首相は、エジプトへネルソン提督率いるイギリス海軍を派遣した。ナポレオン軍は、ヨーロッパに戻れなくなりイタリアを奪還された。
ナポレオンは単独でパリへ帰還。ブリュメール18日のクーデターで政権を掌握した。一方で、エジプトに残されたフランス軍はイギリスに降伏した。
このとき、オスマン帝国もエジプトへ援軍を派遣した。その援軍を指揮したのがムハンマド=アリーである。ムハンマド=アリーは、アルバニア(バルカン半島)出身の傭兵である。フランス軍が降伏すると、オスマン帝国はムハンマド=アリーをエジプト提督につけた。当初、ムハンマド=アリーは、マムルークを使って統治したがエジプトの現状を見てマムルークの一掃に向かった。
第一次セルビア独立運動(バルカン半島)
18世紀、バルカン半島はオスマン帝国の支配下にあった。18世紀末のフランス革命はオスマン帝国の圧政に苦しむバルカン半島のキリスト教徒(東方正教会)に勇気を与えた。そして、19世紀前半、バルカン半島の独立運動が盛んになった。
イエニチェリの圧政に苦しむセルビア人が起こした独立運動。
同じスラブ人のロシアの支援を期待したが、ロシアはナポレオン戦争の真っただ中で支援する余裕はなかった。そのため、第1次セルビア独立運動派うまくいかなかった。
ワッハーブ王国(サウジアラビア)
ワッハーブ王国は、18世紀末にアラブ人のサウード建国したワッハーブ派の国である。
00年代、ワッハーブ王国は、聖地のメッカ、メディナを占領。メッカの巡礼者にワッハーブ派を強要した。
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