10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。

1800年代のフランス ナポレオン、ローマ教皇より戴冠を受け、ピット率いるイギリス海軍と戦う。

 1799年、ナポレオンのクーデターでフランス革命終結した。イギリス、オーストリアと講和が成立すると02年終身統領になる。フランス革命の総決算としてナポレオン民法典をまとめる。しかし、04年、ローマ教皇から戴冠を受けるとイギリスのピットを中心に第三回対仏大同盟が結成。ナポレオン戦争が始まる。徴兵制を引いたフランスは、資本力の劣るイギリスには敗れるもののプロイセンオーストリアなどに連戦連勝を繰り返す。

 

ナポレオンの外交 ナポレオンの政治基盤

 ナポレオンは、ヨーロッパの大部分を支配下に入れた。その目的は、イギリスへの経済制裁にあった。ナポレオンは海上では資本力の差で勝つことはできなかった。しかし、陸戦では圧倒的な勝利を続けた。その理由は、徴兵制である。フランスは、フランス革命によって多くの農民が土地を得ることができた。そのため、忠誠心が高かった。しかし、周辺諸国は18世紀型傭兵集団であった。そのため、敗戦が濃厚になると逃亡する兵士が続出した。

99年 ブリュメール18日のクーデターで、ナポレオンの独裁が始まる。

00年 オーストリア領イタリアへ再び侵攻(第二次イタリア戦争)

01年02月 オーストリアと休戦 → ライン川西岸までフランス領となる。

01年 ジャコバン派の反キリスト教政策で対立していたローマ教皇と和解。

02年03月 イギリスと講和。(アミアンの和約
     イギリスで強硬派のビットが辞任により成立。
      イギリス
       オランダ領セイロン(スリランカ)などの海外植民地の領有が認められる。
       地中海のミノルカ島をナポレオン帝政下のスペインに返還
        ※ ジブラルタル海峡は、現在でもイギリス領
        フランス
       ベルギー、ライン川西岸、イタリアの領有を認められる。
      これにより第2回対仏大同盟は解消

02年    憲法を改正し、終身統領になる。

04年05月、国民投票で皇帝に即位、

04年12月、ローマ教皇の戴冠を受けた。 
       →イギリスでは首相に返り咲いたピットがアミアンの和約を破棄
      → ローマではなく、パリのノートルダム大聖堂で実施
       → ノートルダム大聖堂は93年ジャコバン派
                  『理性の崇拝』を実施した場所
     → このころ、ヴェートーベンが交響曲『英雄』を発表

05年、イギリス、ピット首相は第3回対仏大同盟を結成。
    ナポレオン戴冠の反発
    参加国 → イギリス、オーストリア、ロシア、スウェーデン
    不参加 → プロイセン

05年10月 ナポレオン海軍、イギリスに敗れる(トラファルガー海戦

05年12月 ナポレオン陸軍、ロシア・オーストリア連合軍に大勝
      アウステルリッツ三帝会戦
      → 第三回対仏大同盟は解散
     → この時の勝利を記念した作られたのがパリの凱旋門である。

06年07月 バイエルンなどドイツ西南部で神聖ローマ帝国を離脱し、ライン同盟結成
 これにより、神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世は退位、名目上も神聖ローマ帝国も崩壊した。(17世紀1648年のウェストファリア条約神聖ローマ帝国は事実上分裂していた)フランツ2世は、オーストリア皇帝となる。(オーストリアの誕生)
 ちなみに、フランツ2世は、マリーアントワネットの甥にあたる。

06年10月 ナポレオン陸軍、プロイセンに勝利

06年11月 ナポレオン陸軍、ベルリン入城

06年11月 大陸封鎖令
      イギリスへの経済封鎖 → ピットを失脚させたい。
                        イギリス工業製品(産業革命後)の輸入禁止
      産業資本家は支持、貿易商人は反発

 

07年07月 ロシア・プロイセンとティルジット条約を締結
     これにより、ナポレオンは大陸を制覇する。
      ロシア → 大陸封鎖令を遵守(農産物をイギリスに売れない)
           しかし、ロシアはこれを無視する。

      プロイセンエルベ川の東に追いやられる。
             西にウェストファリア王国成立
              実弟を国王とする。

      ポーランドワルシャワ大公国)の復活

07年07月 ナポレオン、ポルトガルにイギリスへの経済制裁を依頼
      → ボルトガルは拒否

07年11月 フランス、ポルトガルの首都リスボンを占領
    → ポルトガル国王一族は、イギリスの支援でブラジルのリオに避難     

07年12月 大陸封鎖令強化(ミラノ勅令)
      イギリスに船を入れるな  → 制海権がないので効果なし
      しかし、これによりアメリカとイギリスの貿易に影響
       → 12年米英戦争(第二次独立戦争)のきっかけ

08年05月 スペインで反乱
     ポルトガル併合で、イギリスへの交易ができなくなった。
     ゴヤ『1808年5月3日』

08年06月 ナポレオン、スペイン国王を退位させ、ナポレオンの兄をスペイン王とする。

08年12月 ナポレオン、スペインのマドリード入城
     異端審問の廃止、封建制の廃止などの
      フランス革命と同じ改革を実施。

09年01月 オーストリア情勢悪化により、ナポレオン帰国
     下級カトリック聖職者を中心にゲリラ戦が始まる。

 

10年04月 ナポレオン皇帝、オーストリア皇女(フランツ1世の娘)と結婚
      オーストリア外相メッテルニヒが画策
     ※ 当初、ロシア皇女結婚予定だったが ロシアとの関係悪化で破談

 

ナポレオンの政治 フランス革命をいかに終わらせるのか

 フランス革命のポイントは土地の所有権にあった。そのため、土地の所有権にまつわるトラブルが続出。そのため、04年03月、人権宣言の内容を法制化した民法が作られた。(ナポレオン民法典)。このほかにも、フランス産業育成のため00年フランス銀行を設立。02年には、軍事を国民が担うようになったため、公教育制度を導入した。この教育制度にはルソーの教育論(エミール)が反映されている。公教育制度はフランス軍の強さに現れた。日本などほかの国も民主化すると公教育制度を導入した。

エジプト遠征後のエジプト

 98年にフランスに占領されたエジプトは、オスマン帝国がイギリスの援軍をえて領土を回復した。この時活躍したオスマン帝国軍ムハンマド=アリーはエジプト民衆の支持を得て総督(パシャ)に就任。05年オスマン帝国はこれを追認した。事実上エジプトは独立した。フランスは、ムハンマド=アリーを金銭的に支援。これが近代的陸海軍の創設や工場建設に役立った。また、当時の地主層トルコ系のマムルークを一掃、農民層のアラブ人の支持が拡大した。

なぜ、フランスはアジアの拠点をベトナムにしたのか

ベトナムでは、阮福暎は、西山政権をたおし阮王朝たてた。この時に活躍したのがフランスの義勇兵であった。このころからベトナムとフランスの結びつきが強くなる。

そのころの日本は

 

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 そのころの中国は

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