1830年代のフランス 七月王政 アルジェリア出兵と富裕層中心の七月王政
1830年、シャルル10世は北アフリカのアルジェリアに出兵。同じころ、議会選挙で反王政派が大勝。シャルル10世は、これに対し議会を解散。これをきっかけに七月革命がおこる。
反王政は、新国王ルイ=フィリップを擁立。七月王政が始まる。制限選挙の影響で大資本家向けの政治が行われる。このころ、アルジェリアをめぐり対立中のオスマン帝国では、エジプト=トルコ戦争が行われている。
シャルル10世の反動政治
30年のフランスは、シャルル10世が貴族優遇の反動政治を行っていた。また、地中海の対岸北アフリカのオスマン帝国領アルジェリアに出兵した。当時のヨーロッパ情勢は、五国同盟がウィーン体制を守っていた。イギリス・ロシア・オーストリア(ハプスブルク)・プロイセン(のちのドイツ)そしてフランスである。
七月革命と七月王政
そのような中、開かれた30年の総選挙では、反国王派が圧勝。当時の選挙は、制限選挙で一部の富裕層しか参政権はなかった。これに対し、国王シャルル10世は議会を解散。パリ民衆は暴動をおこし、シャルル10世は亡命した。反国王派は、自由主義者のルイ=フィリップを国王に即位させた。ルイ=フィリップは銀行などの大資本家優位の政治を行った。
ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』*1は、七月革命の様子をえがいたものである。この絵に政治家が描かれていないのが七月革命の特徴であり、リーダーなき革命といわれる。
七月革命は、ヨーロッパ全土に波及したが、大部分が失敗に終わっている。(ポーランドの独立革命、ドイツ・イタリアの反乱)。しかし、影響力も大きかった。イギリスでは、チャーチスト運動(普通選挙を求める運動)に拍車がかかった。また、後述のベルギー独立もこの影響を受けている。
エジプト=トルコ戦争とアルジェリア
31年、エジプトがシリアの領有権をめぐりオスマン帝国と開戦した。当時のフランスは、アルジェリアをめぐりオスマン帝国と交戦中。また、エジプトに対し財政支援を行っていた。そのため、エジプトを支援した。一方、ロシアは、オスマン帝国内のダーダネルス・ボスフォラス海峡(黒海と地中海を結ぶ海峡)の航行権を期待してオスマン帝国を支援した。当時のエジプトは、フランス支援によって富国強兵を進めていた。エジプト南部のスーダンまで領土を広げ、18年ワッハーブ王国(のちのサウジアラビア)を滅ぼした。
ロシア・フランスを警戒したイギリスは、エジプト=トルコ戦争を仲介。40年のロンドン条約で戦争が終わる。ムハンマド=アリーはエジプト・スーダンの総督の世襲は認められたものの、シリアはオスマン帝国領とされた。また、ロシア軍艦のダーダネルス・ボスフォラス海峡航行権は認められなかった。
産業革命と都市労働者の台頭
このころ、フランスはこのころから産業革命期にはいる。それに伴い労働者階級が台頭していた。そのような中で社会主義者が台頭してきた。社会主義とは、工場や土地など生産手段である私有財産を資本家から没収し、国家が直接労働者を雇って生産を行うシステムである。34年、暴動が起きている。
ベルギーの独立
31年オランダからベルギーが独立。39年フランスなど五大国は、これを承認した。
17世紀、オランダがスペインから独立した際、ベルギーはスペイン領として残った。フランス革命期にフランス領になる。ウィーン会議でオランダ領となった。しかし、カトリック教徒が多いベルギーは、プロテスタントのオランダの支配に抵抗していた。
オランダは、イギリスに対抗するため保護貿易政策を行ったため、イギリス製品の流入が止まった。また、30年のロンドン会議でギリシアの独立承認で独立ムードが高まった。そこに30年フランスの七月革命が飛び火した。30年10月独立を宣言した。
そのころ日本は
そのころの中国は