1810年代のフランス 第一帝政 ナポレオンの没落とウィーン会議
1810年代に入ると、ナポレオン帝政にも陰りが見え始める。12年のロシア遠征失敗である。14年にパリ陥落。ナポレオンは退位した。18世以降戦争が終われば講和会議が行われる。ナポレオン戦争では、ウィーン会議である。ナポレオン戦争とウィーン講和会議で、イギリスとロシアの2強体制が鮮明になった。
ナポレオン体制の終焉
1810年ごろのフランスは、ナポレオン帝政で、ヨーロッパの大部分を支配していた。また、大陸封鎖令でイギリスの工業製品を締め出し、大陸の商工業者の支持を狙った。
ナポレオンの大陸封鎖令は、農業国の不満を高めた。この時の農業国はスペインとロシアである。
スペインではイギリス軍の支援を受けながらゲリラ活動が続いていた。一方、ロシアはイギリスと密貿易を行った。10年12月、ロシアはフランス製品に関税をかけた。しかし、ナポレオンは財政状況悪化のためロシアに派兵できなかった。12年、ナポレオンは密貿易を止めるためロシア遠征をおこなったが失敗。同時に、スペイン王(ナポレオンの兄)も退位した。13年には諸国民戦争でプロイセンなどに敗戦。14年にはパリ陥落。ナポレオンは地中海のエルバ島に流される。
ウィーン会議
フランスは、処刑されたルイ16世の弟ルイ18世が王位につき、ブルボン朝が復活した。ナポレオン戦争の戦後処理のため、パリ陥落の14年からウィーン会議が開かれた。ウィーン会議では、オーストリア外相メッテルニヒが主導、フランスはブルボン朝の代表としてタレーラン外相が参加した。タレーランは、フランス革命以前の体制に戻す正統主義を提唱した。会議は紛糾し、「会議は踊る。されど進まず。」と揶揄された。
15年3月、ナポレオンがパリに戻って復位。同年6月ワーテルローの戦いでイギリス・プロイセン連合軍に敗戦。南大西洋の孤島に流される。同月ウィーン議定書が締結された。
ウィーン体制
ウィーン議定書では以下の通りとなった。
フランス
ナポレオン帝政 ⇒ ブルボン朝(ルイ18世)が復活
ただし、絶対王政ではなく、立憲君主制(憲法と議会で王の権力を制限)
当時の議会は、富裕層にしか選挙権はなかった。
敗戦したのはナポレオンであって、ブルボン朝ではない。
スペイン
ナポレオン帝政 ⇒ブルボン朝が復活
オランダへベルギーを割譲
ロシア
ポーランド王国を建国、ロシア皇帝がポーランド王を兼任
当時のポーランド
18世紀後半にポーランド分割
→ ナポレオン帝政でワルシャワ大公国が復活
→ ウィーン体制でポーランド王国に
プロイセン(のちのドイツ)
ポーランド分割で得た領土を一部回復するとともに、西側に領土を拡大。
ドイツ
ナポレオン帝政により名目上解体した神聖ローマ帝国に、ドイツ連邦が成立
イギリス
オランダより インド洋沿岸の植民地を譲り受ける。
(アフリカのケープ植民地、インドのスリランカ島)
オランダ
スペインより、ベルギーを譲り受ける
イギリスへ、インド洋沿岸の植民地を割譲
オーストリア
北イタリアを併合(未回収のイタリア)
国際関係
神聖同盟
ロシア皇帝(ギリシア正教会)が提唱
イギリスとローマ教皇は不参加
四国同盟
イギリスが提唱
イギリス、ロシア、オーストリア、プロイセン
18年にフランスが参加して五国同盟にかわった
この2つの同盟が第一次世界大戦後の国際連盟が成立するまでの国際秩序となる。
神聖同盟 → 国際連合(総会)、四国同盟 → 安全保障理事会
ウィーン会議後のヨーロッパ
ナポレオン戦争の敗北でフランスの発言力は低下した。代わりに台頭したのがロシアである。このあと、日露戦争まで、イギリスVSロシアのグレートゲームが繰り広げられる。
ウィーン会議で、王政は生き残ったが、フランス革命やナポレオンにより、民主化の流れが大きくなった。イギリスのチャーチスト運動(普通選挙を求める運動)がその一例である。ここから48年の二月革命、三月革命まで革命と独立戦争が頻発する。
このころ日本は
このころ中国は