10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。

13世紀のイギリス イングランドに憲法と議会(国会)が成立

 13世紀、日本では鎌倉時代。チンギス=ハンがユーラシア大陸の大部分を侵略していた時代である。

 ヨーロッパでも、神聖ローマ帝国(ドイツ)やポーランドはモンゴルの侵攻を受けた。しかし、フランスやイングランドなど西欧はモンゴルの侵攻を受けずに済んだ。

 

 前回の復習 百年戦争の勃発とプランタジネット朝の終焉

 14世紀、イングランドは大陸領土奪還を目的としてフランスへ侵攻した。百年戦争である。また、14世紀後半になると、ペストが流行。農民や貴族の不満が高まった。これにプランタジネット朝のリチャード2世の悪政が重なり、プランタジネット朝は幕を閉じた。

 今回は、12世紀アンジュー帝国と呼ばれたプランタジネット朝がフランスに領土をうばれていく過程を見ていきます。

マグナカルタに署名するジョン王

 13世紀初頭、第3回十字軍で活躍した獅子心王リチャード1世が亡くなった。当時のイングランドは大陸に広大の領土を持っていた。そのためアンジュー帝国と呼ばれていた。

 リチャード1世の跡を継いだのは失地王ジョン王である。ジョン王は、フランス国王フィリップ2世に大陸領土の大部分をあっさり奪われてしまった。

ジョン王、フランスに敗戦

 この頃になると、分割相続によりイングランド貴族と大陸領土の帰属に分かれるようになる。イングランドの貴族は大陸領土に興味がなくなり、大陸領土の貴族はイングランド王よりもフランス国王に従属するようになった。  

 ジョン王は、大陸領土奪還のため、大陸領土の貴族に応援を求めた。しかし、大陸領土の貴族は、フランス国王フィリップ2世に忠誠を誓い完全にフランス貴族になってしまった。

 ジョン王は、神聖ローマ帝国(ドイツ)の皇帝オットー1世と同盟。フランスへ遠征。しかし、これは失敗に終わる。

重税に反発したイングランド貴族が王権を制限 (マグナ=カルタ)

 ジョン王は、再びフランス遠征をおこなうため、税の徴収を行おうとした。しかし、イングランド貴族は猛反発した。その理由はイングランド貴族はすでに大陸領土への興味をすでに失っていたからである。
 イングランド貴族は、ジョン王に王権の制限を要求した。これがマグナカルタである。マグナカルタはイギリスの憲法に相当するもので、国王の権限を制限した文書である。ジョン王は、このマグナカルタに署名した。

国王派VSイングランド貴族

 ジョン王は、一旦マグナカルタに署名したが、その後マグナカルタを破棄した。これにより、イングランド貴族とジョン王の内戦が勃発した。当初、国王派が優勢であった。そのため、イングランド貴族は起死回生の一手を打った。フランスのフィリップ2世に応援を要請した。フィリップ2世は自分の息子を次期イングランド国王になることを条件に参戦した。これにより、国王派は劣勢にジョン王は病死した。

 しかし、ジョン王の病死によって形勢は再び変わった。国王派はジョン王の息子ヘンリ3世を擁立。人望の厚い国王派のリーダーによって国王派の勝利に終わった。

悪役としてのジョン王

 ジョン王は、アンジュー帝国の広大な領土を失い、敗戦と重税で貴族から嫌われていた。そのため、イングランドの物語ではたびたび悪役として登場する。その一例が「ロビン・フット」である。

議会を無視したヘンリ3世

イングランド議会(パーラメント)の成立

 幼少のヘンリ3世を支えた国王派は、有力貴族や聖職者と和平を結んだ。その条件として、マグナ=カルタの遵守を挙げた。この講和会議は「パーラメント(諸侯大会議)」とよばれ、その後定期的に開かれるようになった。これが後のイングランド議会である。

 これにより、イングランドは、憲法(マグナ=カルタ)と議会(パーラメント)が成立した。ちなみにフランスは、14世紀初頭に議会(三部会)が成立する。

成人したヘンリ3世、議会と対立

 ヘンリ3世は、成人すると父の名誉回復のため、再びフランスへの遠征を行おうとした。イングランド議会は当然反発。ヘンリ3世は議会を無視してフランスへ遠征した。しかし、かんばしい成果は得られなかった。

 このころ、神聖ローマ帝国(ドイツ)皇帝とローマ教皇の対立が激化していた。その理由は第5回十字軍である。そのため、ローマ教皇イングランド王ヘンリ3世に協力をあおいだ。ローマ教皇はヘンリ3世にイタリア南部のシチリア王の地位を与えようとした。しかし、その条件は、イングランドのイタリア遠征である。イングランド議会はこれを拒否。この計画は失敗した。

フランスとの講和

 ヘンリ3世は、議会の反発でフランスとの戦争の継続は困難と判断。フランス王ルイ9世と講和した。これにより、イギリス北西部(アンジュー、ノルマンディ)を放棄。代わりにフランス南西部(アキテーヌ)の領有を保証してもらった。

 当時、フランス王ルイ9世も戦争継続は避けたい状況にあった。ルイ9世はアルビジョワ十字軍に成功したものの、第6回十字軍に失敗。フランスはかなり疲弊していた。

シモン=ド=モンフォールの反乱

 フランスとの講和を果たしたヘンリ3世は、対外的に憂いがなくなった。そのため王権強化に軸を切り替えた。反国王は貴族の弾圧である。これに対し反国王派の貴族が反乱を起こした。その中心人物がシモン=ド=モンフォールである。シモン=ド=モンフォールは国王ヘンリ3世を捕虜にした。これにより、ヘンリ3世は、議会の開設を約束した。これの議会は、シモン=ド=モンフォール議会と呼ばれる。

 このあと、皇太子エドワード1世の活躍により、この反乱は鎮圧。シモン=ド=モンフォールは戦死した。そのため、イングランド議会制度は定着しなかった。

スコットランドとの国境が画定

 UK(イギリス)は、4つの国家の連合国家である。北アイルランドグレートブリテン島の3つの国である。その3つの国とは、ロンドンがある南部のイングランドと、ブリテンの北部にあるスコットランド、そしてブリテン島西部のウェールズである。現在でもサッカーワールドカップなどでは、イギリスではなくそれぞれの国で大会に出場している。

 イングランドスコットランドは11世紀のノルマンコンクエスト以降、国境紛争が絶えなかった。ヘンリ3世は、スコットランドとヨーク条約を締結。スコットランドとの国境を画定させた。

 また、ヘンリ3世は、ウェールズの有力者グウィネズ公をウェールズ公と認めた。

議会を尊重したエドワード1世

 72年、ヘンリ3世が亡くなるとエドワード1世が即位した。

 エドワード1世は、父ヘンリ3世とは違い、議会を尊重した。議会の承認がないことを理由にローマ教皇の寄進要求も拒否。外国との条約も議会に承認をはかった。当時の議会は模範議会と呼ばれた。エドワード1世が議会を尊重したのには理由があった。それはブリテン島の統一、すなわちスコットランドウェールズの併合である。

 77年には、ウェールズの併合に成功した。91年にはスコットランドの王位継承問題に介入。エドワード1世の息のかかったジョンをスコットランド王に据えることに成功した。しかし、スコットランド貴族はジョン王のもとで、フランスと同盟。この同盟にエドワード1世は猛反発。エドワード1世はスコットランドへ侵攻した。

 ジョン王は、スコットランド王の地位をエドワード1世に譲り、エドワード1世はブリテン島の統一を果たした。

国際情勢 モンゴルの世紀

 西欧で、イングランドとフランスがもめているころ。神聖ローマ帝国は巨大な敵と戦っていた。41年、モンゴルのバトゥ軍は東欧へ侵攻した。ワールシュタットの戦いである。しかし、翌42年、オゴタイ=ハンの死によって東欧への侵攻は終わった。その後、バトゥは東欧ロシアを支配していた。

 一方、モンゴル軍は中東へも侵攻していた。十字軍を展開していたローマ教皇やフランスはたびたびモンゴルへ使者を送り、イスラム勢力の挟み撃ちを検討したいた。

 

この頃の日本は

 

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 モンゴルの状況は

 

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 イングランド領を奪っていったフランスとは

 

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