1970年代のイラク ホメイニ師 イラン革命で宗教色を高め、アメリカとの関係悪化
1970年代、日本では日中国交正常化や列島改造計画で有名な田中角栄首相の時代であった。
そのころの中東では、3つの新政権が樹立した。イランのホメイニ師政権。イラクのフセイン政権。アフガニスタンの共産主義政権である。
イランは、政権交代によりアメリカとの関係が急速に悪化した。アフガニスタンの共産主義政権は、終息に向かっていた冷戦を再燃させた。
イラン革命で、宗教色を強める。
79年、イランでクーデターが発生。国王は亡命。ホメイニ師は帰国しイラン=イスラム共和国を建国した。ホメイニ師は、最高指導者につき、イスラム教の教えにしたがった政治を行った。この結果、イスラム色が強い国に代わるとともに、親米政権が倒れたことでアメリカとの関係が急速に悪化した。
親米派のパフレヴィー朝
当時の国王は、パフレヴィー朝のパフレヴィー2世である。パフレヴィー2世は63年の白色革命を実施。西欧化政策を進めた。開発独裁とアメリカ資本を使って経済成長をすすめた。しかし、格差は拡大。また、秘密警察を使い反体制派の弾圧を行った。そのため、国民の不満は高まっていた。70年代後半に入ると、第4次中東戦争が終わり、石油価格が下落。国民は困窮した。
ホメイニ師とは
イスラム教シーア派の聖職者。イスラム信仰に基づく政治を説いた。63年の白色革命を批判。翌64年、国外追放になった。79年イラン革命で国王が亡命したことにより帰国。最高指導者に就任した。
米国大使館人質事件
79年11月、革命派の学生がイランの米国大使館を占拠。アメリカに亡命したパフレヴィー2世の引き渡しを要求した。80年4月、民主党カーター大統領は人質救出作戦を行うも失敗。これにより、大統領選挙に敗北。共和党レーガン大統領が就任した。81年1月人質は無事解放された。
第2次石油危機
当時、イランはサウジアラビアに次ぐ第2位の石油輸出国であった。しかし、イラン革命で石油の供給がストップ。再び石油価格が高騰した。これにより、先進国は低成長時代に入る。
イラクでフセイン大統領が登場
79年7月、バアス党のバルク大統領が辞任。フセイン大統領が誕生した。バルク大統領は、78年10月結んだシリアのアサド政権との統合憲章に反発した人たちのクーデターともいわれている。フセイン大統領は、シリアと友好的とされたものを粛清していった。このため、シリアはイラン=イラク戦戦争時にイラクとの国交を断絶した。
ソビエト連邦、アフガニスタン侵攻
親ソ政権成立
78年、アフガニスタンで共産主義政権が樹立。これに対し、反政府側が武装蜂起。反政府側が全土を掌握した。
米ソ デタント(緊張緩和)
アメリカは、60年代のベトナム戦争の失敗で経済力が低下。ニクソンショックで金兌換停止をするまでに至った。一方、ソ連も経済が停滞していた。また、米ソ対立が激化。両国とも冷戦を継続できる状況下になかった。
そのような中、両国の軍縮交渉が行われた。第1次戦略兵器制限条約(SALT Ⅰ)、迎撃ミサイル制限条約、核戦争防止条約、ヘルシンキ宣言などの結果を残した。
ソビエトアフガニスタン侵攻
73年9月、無血クーデターで王政は停止。アフガニスタンは共和制へ移行した。アフガニスタン共和国が成立。
78年、共産主義者によるクーデターで親ソ政権が樹立。アフガニスタン民主強国が成立
79年9月、アミン氏を中心とする反共産主義者によるクーデターが発生。アフガニスタンは内戦状態に入る。
79年12月、ソ連のブルジネフ政権は、共産主義政権を支援するためアフガニスタンへ派兵した。
これにより、米ソ関係は急速に悪化した。
次回予告
パフレヴィー朝の政策とはどのようなものか。
パフレヴィー朝の政策はどうして国民の支持をえられなかったのか。
「1960年代のイラン パフレヴィー朝 皇帝による西洋化革命(白色革命)」
お楽しみに
そのころ日本は
そのころヨーロッパは
このころ中国は