10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。HPを開設しました。https://sekaishiotaku.com/

1920年代のトルコ・ギリシャ ケマル大統領とトルコ革命

 1920年代、第一次世界大戦終結し、つかの間の平和が訪れた。アメリカは栄光の20年代謳歌していた。

 この時期、トルコは重要な転換点を迎えていた。第一次世界大戦オスマン帝国が崩壊。トルコ革命が発生。現在のトルコ共和国が成立した。

 

前回の復習 ムスタファ=ケマルの西洋化政策 

 1930年代、トルコは、ムスタファ=ケマル大統領が西洋化政策を展開していた。ギリシャは、王政が復興した。バルカン半島ではユーゴスラビアがイタリアのムッソリーニに狙われていた。中東では、イラク王国サウジアラビア王国が建国された。

 今回は、トルコの大転換期、トルコ革命を通じて中東、バルカン、ギリシャの歴史を見ていきます。

 

トルコ革命

トルコの首都はなぜ、イスタンブルではなくアンカラなのか

 この時代、トルコはオスマン帝国の時代である。中東の大部分を支配していた。首都は、トルコの西にあるイスタンブルである。トップはスルタンと呼ばれていた。
 オスマン帝国は、第一次世界大戦に降伏した。しかし、まだ戦い続ける勢力があった。それがムスタファ=ケマルである。ムスタファ=ケマルはトルコの東にあるアンカラでトルコ大国民会議を招集。ゲリラ戦で抵抗し続けた。

セーブル条約(オスマン帝国の降伏)

 オスマン帝国は、セーブル条約でアラブ地域の支配権の放棄の他、アナトリア半島の大部分をフランス、イタリア、ギリシャに分割する内容であった。これは、事実上オスマン帝国の消滅を意味していた。このとき、クルド人の独立も容認された。

 しかし、この条約を認めない勢力があった。アンカラのトルコ大国民会議(ムスタファ=ケマル)である。


ケマル、ギリシャ軍を撃退

 19年、ギリシャ軍がトルコへ侵攻した。20年のセーブル条約が決裂したことでこの戦争は激化した。これに抵抗したのが軍人ケマルである。ケマルは、トルコ大国民会議を編成した。22年、ギリシャ軍を撃退した。翌23年、ローザンヌ条約を締結。国境を画定させ、治外法権の廃止、関税自主権の回復を実現した。

 一方、ギリシャ王国は、この敗戦で国王の信頼は失墜した。クーデターが発生し共和制へ移行した。

トルコ共和国の建国

 ケマルはギリシャ軍を撃退すると、首都をイスタンブールから東部のアンカラに遷都。トルコ共和国を建国した。ケマルはトルコ共和国の大統領になり、憲法を発布した。

ケマルの西洋化政策

 ケマル大統領は、西洋諸国に追いつくため西洋化政策を進めた。これにより、トルコは他の中東諸国に比べイスラム色が薄い国となった。具体的には、次の政策を行った。政教分離政策。西洋諸国と同じ太陽暦の採用。女性参政権の実施。アラビア文字をやめアルファベットを使用した。

オスマン帝国から独立した中東諸国

サイクス=ピコ協定による分割統治

 中東は、第一次世界大戦期までオスマン帝国支配下にあった。第一次世界大戦終結すると、サイクス=ピコ協定に基づき、フランスとイギリスによる分割統治が始まった。

 フランスは、地中海沿岸のシリアを獲得した。しかし、シリアではフランスの委任統治に対する反乱が発生。フランス本国政府は、シリアの選挙実施に応じた。

 一方、イギリスはインド(イラン)とエジプトを結ぶルートを確保した。それがイラクである。イラクバグダードを持つ国である。

三枚舌外交とパレスチナ問題

 パレスチナは、イギリスの委任統治領とされた。イギリスは第二次世界大戦中に3つの条約を締結した。アラブ人(ハシーム家)から軍事的協力を得るためのフセイン=マクマホン協定。ユダヤ人から資金協力を得るためのバルフォア宣言。そして、フランスロシアと結んだサイクス=ピコ協定である。

第一次世界大戦後のバルカン

ヴェルサイユ体制

 ヴェルサイユ条約第一次世界大戦講和条約)では、民族自決の原則が書かれていた。これによってバルカン半島では、敗戦国のオーストリアオスマン帝国から多くの国が独立を果たした。これらの国は、フランスと連携してヴェルサイユ体制を守ろうとした。
 しかし、20年代農業不況が発生。農業国の多いバルカン諸国は不況に悩まされた。これによって、強権政治によって国民を統合しようとする動きが出てきた。その一例が29年に建国されたユーゴスラビアである。

ユーゴスラビアの成立

  第一次世界大戦後、セルビア人は、オーストリアから独立したクロアチア人、スロベニア人とともにユーゴスラビアを建国した。ユーゴスラビアは、ハンガリーから奪った領土を守るため、同じ戦勝国チェコスロヴァキアルーマニアとともに軍事同盟を締結した。

 ユーゴスラビアは、セルビア人主導で進められた。そのため、クロアチア人の中にはこれを不満に持つ者もいた。また、イタリアのムッソリーニは、ユーゴスラビアへの侵攻を模索していた。これに対抗するため、ユーゴスラビアはフランス、イギリスとの連携を強化していた。

 このころの日本は

 

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 三枚自他外交を転換したイギリスは

 

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