1920年代、第一次世界大戦が終結し、つかの間の平和が訪れた。アメリカは栄光の20年代を謳歌していた。
この時期、トルコは重要な転換点を迎えていた。第一次世界大戦でオスマン帝国が崩壊。トルコ革命が発生。現在のトルコ共和国が成立した。
前回の復習 ムスタファ=ケマルの西洋化政策
1930年代、トルコは、ムスタファ=ケマル大統領が西洋化政策を展開していた。ギリシャは、王政が復興した。バルカン半島ではユーゴスラビアがイタリアのムッソリーニに狙われていた。中東では、イラク王国やサウジアラビア王国が建国された。
今回は、トルコの大転換期、トルコ革命を通じて中東、バルカン、ギリシャの歴史を見ていきます。
トルコ革命
トルコの首都はなぜ、イスタンブルではなくアンカラなのか
この時代、トルコはオスマン帝国の時代である。中東の大部分を支配していた。首都は、トルコの西にあるイスタンブルである。トップはスルタンと呼ばれていた。
オスマン帝国は、第一次世界大戦に降伏した。しかし、まだ戦い続ける勢力があった。それがムスタファ=ケマルである。ムスタファ=ケマルはトルコの東にあるアンカラでトルコ大国民会議を招集。ゲリラ戦で抵抗し続けた。
セーブル条約(オスマン帝国の降伏)
オスマン帝国は、セーブル条約でアラブ地域の支配権の放棄の他、アナトリア半島の大部分をフランス、イタリア、ギリシャに分割する内容であった。これは、事実上オスマン帝国の消滅を意味していた。このとき、クルド人の独立も容認された。
しかし、この条約を認めない勢力があった。アンカラのトルコ大国民会議(ムスタファ=ケマル)である。
ケマル、ギリシャ軍を撃退
19年、ギリシャ軍がトルコへ侵攻した。20年のセーブル条約が決裂したことでこの戦争は激化した。これに抵抗したのが軍人ケマルである。ケマルは、トルコ大国民会議を編成した。22年、ギリシャ軍を撃退した。翌23年、ローザンヌ条約を締結。国境を画定させ、治外法権の廃止、関税自主権の回復を実現した。
一方、ギリシャ王国は、この敗戦で国王の信頼は失墜した。クーデターが発生し共和制へ移行した。
トルコ共和国の建国
ケマルはギリシャ軍を撃退すると、首都をイスタンブールから東部のアンカラに遷都。トルコ共和国を建国した。ケマルはトルコ共和国の大統領になり、憲法を発布した。
ケマルの西洋化政策
ケマル大統領は、西洋諸国に追いつくため西洋化政策を進めた。これにより、トルコは他の中東諸国に比べイスラム色が薄い国となった。具体的には、次の政策を行った。政教分離政策。西洋諸国と同じ太陽暦の採用。女性参政権の実施。アラビア文字をやめアルファベットを使用した。
オスマン帝国から独立した中東諸国
サイクス=ピコ協定による分割統治
中東は、第一次世界大戦期までオスマン帝国の支配下にあった。第一次世界大戦が終結すると、サイクス=ピコ協定に基づき、フランスとイギリスによる分割統治が始まった。
フランスは、地中海沿岸のシリアを獲得した。しかし、シリアではフランスの委任統治に対する反乱が発生。フランス本国政府は、シリアの選挙実施に応じた。
一方、イギリスはインド(イラン)とエジプトを結ぶルートを確保した。それがイラクである。イラクはバグダードを持つ国である。
三枚舌外交とパレスチナ問題
パレスチナは、イギリスの委任統治領とされた。イギリスは第二次世界大戦中に3つの条約を締結した。アラブ人(ハシーム家)から軍事的協力を得るためのフセイン=マクマホン協定。ユダヤ人から資金協力を得るためのバルフォア宣言。そして、フランスロシアと結んだサイクス=ピコ協定である。
第一次世界大戦後のバルカン
ヴェルサイユ体制
ヴェルサイユ条約(第一次世界大戦の講和条約)では、民族自決の原則が書かれていた。これによってバルカン半島では、敗戦国のオーストリアやオスマン帝国から多くの国が独立を果たした。これらの国は、フランスと連携してヴェルサイユ体制を守ろうとした。
しかし、20年代農業不況が発生。農業国の多いバルカン諸国は不況に悩まされた。これによって、強権政治によって国民を統合しようとする動きが出てきた。その一例が29年に建国されたユーゴスラビアである。
ユーゴスラビアの成立
第一次世界大戦後、セルビア人は、オーストリアから独立したクロアチア人、スロベニア人とともにユーゴスラビアを建国した。ユーゴスラビアは、ハンガリーから奪った領土を守るため、同じ戦勝国のチェコスロヴァキア、ルーマニアとともに軍事同盟を締結した。
ユーゴスラビアは、セルビア人主導で進められた。そのため、クロアチア人の中にはこれを不満に持つ者もいた。また、イタリアのムッソリーニは、ユーゴスラビアへの侵攻を模索していた。これに対抗するため、ユーゴスラビアはフランス、イギリスとの連携を強化していた。
このころの日本は
三枚自他外交を転換したイギリスは