10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。HPを開設しました。https://sekaishiotaku.com/

1830年代のロシア ロマノフ朝 ニコライ1世 エジプト=トルコ戦争とショパン

 1830年代、日本は江戸時代後期。寛政の大飢饉で苦しんでいた。
 そのころ、ロシアは、2つの地域に注目していた。ポーランドオスマン帝国である。

 

 

ポーランド反乱とショパン

 ポーランドは、1815年のウィーン議定書でロシア皇帝を兼任。ただし、議会を認めるなど、自治を認められていた。

30年 十一月蜂起

背景

 25年に起きたロシア青年将校の反乱(デカブリストの乱)により、ニコライ1世は専制政治を強めていた。その影響は、ポーランドにも及んだ。ポーランドの自由運動への迫害がその一つである。

原因

 30年、ロシア皇帝は、ポーランド軍を30年革命(フランスの七月革命など)真っただ中のフランスとオーストリアへ派遣しようとした。それに反発した士官学校の生徒が 1830年代、日本は江戸時代後期。寛政の大飢饉で苦しんでいた。

 そのころ、ロシアは、2つの地域に注目していた。ポーランドオスマン帝国である。

 

 

 

 

 

 

ポーランド反乱とショパン

 ポーランドは、1815年のウィーン議定書でロシア皇帝を兼任。ただし、議会を認めるなど、自治を認められていた。

 

30年 十一月蜂起

背景

 25年に起きたロシア青年将校の反乱(デカブリストの乱)により、ニコライ1世は専制政治を強めていた。その影響は、ポーランドにも及んだ。ポーランドの自由運動への迫害がその一つである。

 

原因

 30年、ロシア皇帝は、ポーランド軍を30年革命(フランスの七月革命など)真っただ中のフランスとオーストリアへ派遣しようとした。それに反発した士官学校の生徒が30年11月29日の夜ポーランド総督(ロシアから派遣された知事。ニコライ1世の叔父が担当)の宮殿を襲撃。これに呼応してワルシャワで一斉蜂起が起きた。
 これをワルシャワ蜂起、11月の夜といわれている。

経緯

 ワルシャワに駐屯していたロシア軍は、ワルシャワを追放された。
 ポーランド政府は、不人気の閣僚を罷免。ポーランド総督と交渉し平和裏に解決しようとした。しかし、急進派がこれに反発。革命に拍車がかかった。

 翌31年2月14日、ロシア軍がポーランドへ侵入。ロシア=ポーランド戦争へ突入した。この戦争は、ヨーロッパ市民の大きな共感を得た。フランスのラファイエット将軍はパリで集会を行った。また、アメリカでは募金活動が行われた。革命軍は、この世論を背景にイギリスやフランスの仲介で解決を試みていた。

 しかし、イギリス・フランス両政府はこの革命を快く思っていなかった。自国への革命の波及を恐れていた。フランスは、七月革命の真っただ中で仲介する余力はなかった。プロイセンオーストリアも中立の立場をとった。イギリスのパーマストンは、ロシアとの関係を重視して、ポーランドを支援しなかった。

 31年09月、ワルシャワ陥落

 31年11月、ポーランド革命軍の残党が降伏、ポーランド革命は終結した。

影響

 32年、ロシアは、ポーランド議会を停止。直接統治を開始した。

ショパン

 30年のポーランド革命は、偉大な音楽家に影響を与えた。ショパンである。
 ショパンは、演奏家・作曲家と名声を獲得。活躍の場をヨーロッパ全域に広げていた。
 30年11月、ショパンはウィーンに滞在していた。パトロンである友人は革命軍に参加するため、ワルシャワへ引き返した。ショパンは一人ウィーンへ滞在した。

 31年9月、ウィーン(オーストリア)からパリ(フランス)への移動中。ワルシャワ陥落の知らせを受ける。ショパンは、その後パリへ滞在し、二度とポーランドへ戻ることはなかった。パリには、ポーランドからの移民街が形成。ショパンもここに滞在した。

ロシアの南下政策、エジプト=トルコ戦争

 ロシアの最大の関心時は、地中海への進出である。

国際情勢

 1829年オスマン帝国ギリシア独立戦争に敗北。

 オスマン帝国  

  ギリシア独立戦争に敗北。かつての中東の大国は衰退期に入った。

 エジプト

  ギリシア独立戦争では、宗主国オスマン帝国を支援。
  これにより、独立を果たす。

 フランス

  ギリシャ独立戦争では、ギリシャを支援

  30年の七月革命で、資本家の発言力が高まる。
  その最大の関心事が、アルジェリアであった。
  そのため、エジプトを支援している。

 イギリス

  ギリシャ独立戦争では、ギリシャを支援

  15年のウィーン会議でインドへの影響力が拡大
  インドへの航路である東地中海への影響力を高めたい。

  そのため、オスマン帝国やロシアを敵視している。

 ロシア

  ギリシャ独立戦争では、ギリシャを支援
  しかし、地中海に海軍がなかったロシアはあまり活躍できず
  地中海への進出はできなかった。

  そのため、ギリシャ独立戦争後はオスマン帝国に急接近

 

31年 第一次エジプト=トルコ戦争

原因

 エジプトは、オスマン帝国に対しシリアの行政権を要求。
 しかし、オスマン帝国はこれを拒否。
 エジプト=トルコ戦争が始まった。

経緯

 フランスの支援で近代化したエジプト軍がオスマン軍に圧勝。
 オスマン帝国は滅亡寸前までいった。
 そこで、ロシア帝国オスマン帝国に援軍を派遣
 ロシアの東地中海への影響拡大を警戒するイギリス・フランスが介入。
 終戦に至った。 

33年 第一次エジプト=トルコ戦争終結

キュタヒヤ条約(講和条約

 オスマン帝国は、シリアの終身統治権をみとめる。

  ※ エジプト総督が亡くなったら、オスマン帝国へ返還

ウンキャル=スケレッシ条約(ロシア=オスマン帝国の密約)

 ロシアは、オスマン帝国を外敵から守る
 そのかわり、オスマン帝国は、ダーダネルス=ボスフォラス海峡の独占航行権を認める。

39年 第二次エジプト=トルコ戦争

 オスマン帝国皇帝が体調不良(間もなく病死)すると、エジプトは、エジプト・シリアの世襲統治権を求めて再び挙兵。
 ロシアは、ウンキャル=スケレッシ条約に基づき、オスマン帝国を支援した。

 イギリスは、エジプトの巨大化やフランスのアフリカ進出を警戒。ロシアとともにオスマン帝国を支援。

 エジプトは、オスマン帝国に降伏した。

40年 ロンドン会議

次回予告

1820年代のロシア ロマノフ朝 アレクサンドル1世
          デカブリストの乱とギリシア独立戦争

このころ、日本は

 

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 エジプトを支援するフランスは

 

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