1830年代、日本は江戸時代後期。寛政の大飢饉で苦しんでいた。
そのころ、ロシアは、2つの地域に注目していた。ポーランドとオスマン帝国である。
- ポーランド反乱とショパン
- ポーランド反乱とショパン
- ロシアの南下政策、エジプト=トルコ戦争
- 国際情勢
- 31年 第一次エジプト=トルコ戦争
- 33年 第一次エジプト=トルコ戦争終結
- 39年 第二次エジプト=トルコ戦争
- 40年 ロンドン会議
ポーランド反乱とショパン
ポーランドは、1815年のウィーン議定書でロシア皇帝を兼任。ただし、議会を認めるなど、自治を認められていた。
30年 十一月蜂起
背景
25年に起きたロシア青年将校の反乱(デカブリストの乱)により、ニコライ1世は専制政治を強めていた。その影響は、ポーランドにも及んだ。ポーランドの自由運動への迫害がその一つである。
原因
30年、ロシア皇帝は、ポーランド軍を30年革命(フランスの七月革命など)真っただ中のフランスとオーストリアへ派遣しようとした。それに反発した士官学校の生徒が 1830年代、日本は江戸時代後期。寛政の大飢饉で苦しんでいた。
そのころ、ロシアは、2つの地域に注目していた。ポーランドとオスマン帝国である。

- ポーランド反乱とショパン
- ポーランド反乱とショパン
- ロシアの南下政策、エジプト=トルコ戦争
- 国際情勢
- 31年 第一次エジプト=トルコ戦争
- 33年 第一次エジプト=トルコ戦争終結
- 39年 第二次エジプト=トルコ戦争
- 40年 ロンドン会議
ポーランド反乱とショパン
ポーランドは、1815年のウィーン議定書でロシア皇帝を兼任。ただし、議会を認めるなど、自治を認められていた。
30年 十一月蜂起
背景
25年に起きたロシア青年将校の反乱(デカブリストの乱)により、ニコライ1世は専制政治を強めていた。その影響は、ポーランドにも及んだ。ポーランドの自由運動への迫害がその一つである。
原因
30年、ロシア皇帝は、ポーランド軍を30年革命(フランスの七月革命など)真っただ中のフランスとオーストリアへ派遣しようとした。それに反発した士官学校の生徒が30年11月29日の夜ポーランド総督(ロシアから派遣された知事。ニコライ1世の叔父が担当)の宮殿を襲撃。これに呼応してワルシャワで一斉蜂起が起きた。
これをワルシャワ蜂起、11月の夜といわれている。
経緯
ワルシャワに駐屯していたロシア軍は、ワルシャワを追放された。
ポーランド政府は、不人気の閣僚を罷免。ポーランド総督と交渉し平和裏に解決しようとした。しかし、急進派がこれに反発。革命に拍車がかかった。
翌31年2月14日、ロシア軍がポーランドへ侵入。ロシア=ポーランド戦争へ突入した。この戦争は、ヨーロッパ市民の大きな共感を得た。フランスのラファイエット将軍はパリで集会を行った。また、アメリカでは募金活動が行われた。革命軍は、この世論を背景にイギリスやフランスの仲介で解決を試みていた。
しかし、イギリス・フランス両政府はこの革命を快く思っていなかった。自国への革命の波及を恐れていた。フランスは、七月革命の真っただ中で仲介する余力はなかった。プロイセン・オーストリアも中立の立場をとった。イギリスのパーマストンは、ロシアとの関係を重視して、ポーランドを支援しなかった。
31年09月、ワルシャワ陥落
31年11月、ポーランド革命軍の残党が降伏、ポーランド革命は終結した。
影響
32年、ロシアは、ポーランド議会を停止。直接統治を開始した。
ショパン
30年のポーランド革命は、偉大な音楽家に影響を与えた。ショパンである。
ショパンは、演奏家・作曲家と名声を獲得。活躍の場をヨーロッパ全域に広げていた。
30年11月、ショパンはウィーンに滞在していた。パトロンである友人は革命軍に参加するため、ワルシャワへ引き返した。ショパンは一人ウィーンへ滞在した。
31年9月、ウィーン(オーストリア)からパリ(フランス)への移動中。ワルシャワ陥落の知らせを受ける。ショパンは、その後パリへ滞在し、二度とポーランドへ戻ることはなかった。パリには、ポーランドからの移民街が形成。ショパンもここに滞在した。
ロシアの南下政策、エジプト=トルコ戦争
ロシアの最大の関心時は、地中海への進出である。
国際情勢
オスマン帝国
ギリシア独立戦争に敗北。かつての中東の大国は衰退期に入った。
エジプト
ギリシア独立戦争では、宗主国のオスマン帝国を支援。
これにより、独立を果たす。
フランス
30年の七月革命で、資本家の発言力が高まる。
その最大の関心事が、アルジェリアであった。
そのため、エジプトを支援している。
イギリス
15年のウィーン会議でインドへの影響力が拡大
インドへの航路である東地中海への影響力を高めたい。
そのため、オスマン帝国やロシアを敵視している。
ロシア
ギリシャ独立戦争では、ギリシャを支援
しかし、地中海に海軍がなかったロシアはあまり活躍できず
地中海への進出はできなかった。
31年 第一次エジプト=トルコ戦争
原因
エジプトは、オスマン帝国に対しシリアの行政権を要求。
しかし、オスマン帝国はこれを拒否。
エジプト=トルコ戦争が始まった。
経緯
フランスの支援で近代化したエジプト軍がオスマン軍に圧勝。
オスマン帝国は滅亡寸前までいった。
そこで、ロシア帝国はオスマン帝国に援軍を派遣
ロシアの東地中海への影響拡大を警戒するイギリス・フランスが介入。
終戦に至った。
33年 第一次エジプト=トルコ戦争終結
キュタヒヤ条約(講和条約)
※ エジプト総督が亡くなったら、オスマン帝国へ返還
ウンキャル=スケレッシ条約(ロシア=オスマン帝国の密約)
ロシアは、オスマン帝国を外敵から守る
そのかわり、オスマン帝国は、ダーダネルス=ボスフォラス海峡の独占航行権を認める。
39年 第二次エジプト=トルコ戦争
オスマン帝国皇帝が体調不良(間もなく病死)すると、エジプトは、エジプト・シリアの世襲統治権を求めて再び挙兵。
ロシアは、ウンキャル=スケレッシ条約に基づき、オスマン帝国を支援した。
イギリスは、エジプトの巨大化やフランスのアフリカ進出を警戒。ロシアとともにオスマン帝国を支援。
エジプトは、オスマン帝国に降伏した。
40年 ロンドン会議
次回予告
「1820年代のロシア ロマノフ朝 アレクサンドル1世
デカブリストの乱とギリシア独立戦争」
このころ、日本は
エジプトを支援するフランスは