10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。

1890年代のトルコ・ギリシャ ドイツ帝国の3B政策

 1890年代、清王朝日清戦争で日本に敗北。列強の植民地競争はついに東アジアへ到達した。

 そのような中、オスマン帝国などの中東諸国は一時の平和が訪れた。そのような中、ドイツ皇帝ヴェルヘルム2世が来訪した。オスマン帝国は乗ってはいけないバスに乗ってしまうことになる。

 

 前回の復習 青年トルコ革命

 1900年代、日露戦争の日本の勝利を受けて、アジア各地で革命が勃発した。オスマン帝国も例外ではなかった。青年トルコ革命でアブデュル=ハミト2世が退位させれた。これにより、オスマン帝国は内乱状態になった。周辺諸国オスマン帝国へ向って侵攻を始めた。

 今回は、オスマン帝国のアブデュル=ハミト2世の治世を見ていきます。

1890年代、ヨーロッパ列強は清王朝

 1890年代、ヨーロッパの植民地化の中心は東アジアであった。日清戦争清王朝が日本に敗北。ヨーロッパ列強は清王朝に対し、租借地と勢力圏を求めた。租借地とは起源のある事実上の領土割譲である。主に軍隊の駐屯地として使われた。一方勢力圏とは、鉄道敷設権や鉱山採掘権などの経済上の優先権である。

 この中国分割は、1900年代の日露戦争につながる。

ヴェルヘルム2世の3B 政策

ドイツ帝国のヴェルヘルム2世とは

 この時期、オスマン帝国で重要な出来事は、ドイツ帝国へのバグダード鉄道敷設権の許可である。当時のドイツ帝国とはどのような状況であったのだろうか。

 88年、ドイツ帝国でヴェルヘルム2世が即位した。彼はビスマルクを失脚させた。これにより、ビスマルク外交が崩壊。ロシアとドイツ間の再保障条約が破棄。これにより露仏同盟が成立。ビスマルクによって保たれたヨーロッパの平和は終わりを告げようとしていた。

 教科書的には独自色を打ち出すために失脚させたといわれているが、背景はもっと深いところにあると私は思う。ビスマルクは、ユンカーすなわち農場経営者出身である。そのため、イギリスなどの近隣諸国に農産物を売ることで最大の目的である。そのため、輸出相手国であるイギリスとは仲良くしたいところである。

 しかし、ドイツはこの頃、農業国から工業国へ移行していた。輸出相手国はイギリスなどの近隣諸国ではなくアジア・アフリカへ変わった。イギリスなどの近隣諸国は輸出相手国が商売敵に替わったのである。これがビスマルク失脚の要因だと私は考える。

オスマン帝国ドイツ帝国バグダード鉄道敷設権を与える

 ヴェルヘルム2世は、98年イスラエルを訪問。その際に、イスタンブールオスマン帝国のスルタンアブデュル=ハミト2世と面会した。ここで、ヴェルヘルム2世はバグダード鉄道の敷設権を獲得した。

 バグダード鉄道は、ベルリンからバルカン半島を通過、オスマン帝国ビザンティウムイスタンブール)を通過、バグダードを通過しペルシャ湾岸にでる鉄道経学であった。この鉄道が完成すればドイツ帝国バグダード鉄道とペルシャ湾を通じてインド洋へ物資を運ぶことが可能になった。

3B政策は、ロシアとイギリスを刺激した

 3B政策は2つの国を刺激した。ロシアとイギリスである。ロシアは、南下政策を展開していた。南下政策とは、バルカン諸国を経由して地中海へ出るルートの確保であった。そのため、バルカン半島を通る3B政策はとても邪魔であった。

 一方、ロシアは3C政策を展開していた。インドのカルカッタ、エジプトのカイロ、そして南アフリカケープタウンを結ぶ植民地政策であった。エジプトと南アフリカではアフリカ縦断政策が展開されていた。一方でインドとエジプトの間でも陸路で結ぶ政策展開をしていた。カジャールが日清戦争で日本に敗北。列強の植民地競争はついに東アジアへ到達した。

 

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この頃の日本は

 

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 3B政策で刺激した国々

 

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