1890年代のインド イギリス領インド 大英帝国の植民地政策
1890年代、明治時代。日本が日清戦争に勝利したころである。
このころのインドは、イギリスの植民地であった。当時のイギリスは世界最大の植民地を保っていた。今回は、イギリスの植民地政策をみながら当時のインドの様子を見ていきましょう。
- 前回の復習 00年代のインド
- ヨーロッパ情勢 露仏同盟の成立で3つのグループに
- 宗主国、イギリスは、、、、 新たな敵ドイツ帝国の登場
- 90年代のインド 困窮するインド、自治運動を求めるようになる。
- 東南アジアでは、マレーシアの前身、マレー州が成立
前回の復習 00年代のインド
1900年代から、ベンガル分割令を発端に、インドの自治運動が本格化していく。
ヨーロッパ情勢 露仏同盟の成立で3つのグループに
ビスマルクの引退によりビスマルク外交は終焉した。その象徴が、露仏同盟である。これにより、ヨーロッパでは、イギリス、フランス・ロシア、ドイツの3つのグループが形成された。
このころ、清王朝(中国)が日清戦争で日本(明治政府)に敗北。中国分割が本格化した。イギリスもこれに参加している。
宗主国、イギリスは、、、、 新たな敵ドイツ帝国の登場
70年代~80年代のビスマルク外交のおかげで、イギリスは世界最大の植民地を獲得した。当時の仮想敵国はユーラシア大陸の大部分を国土とするロシアであった。この戦いはグレートゲームと呼ばれた。
また、このころドイツの外交政策が変わった。88年に即位したヴェルヘルム2世は植民地獲得競争に参戦した。具体的には、オスマン帝国との3B政策や日清戦争の三国干渉である。このころ、イギリスVSドイツの海軍増強競争(建艦競争)が始まった。
90年代後半、中国分割が本格化。アヘン戦争で先に中国進出を果たしたイギリスは中国(清王朝)に海軍基地(租借地)を置いた。北では、威海衛でドイツ・ロシアをけん制。南では九龍半島(香港)でフランスをけん制していた。
19世紀末に、南アフリカでボーア戦争が勃発。このころから、イギリスVS植民地の構造が登場する。
90年代のインド 困窮するインド、自治運動を求めるようになる。
当時のイギリスは、インド経営に力を入れる余裕はなかった。90年代後半には中国分割が始まった。さらに99年にはボーア戦争が勃発していた。
ただ、インド国民会議(インド人)は、親英的であった。
ただ、このころのインドは困窮していた。2回の大飢饉が発生。ペストも流行した。この困窮が20世紀の自治運動につながる。
東南アジアでは、マレーシアの前身、マレー州が成立
このころのイギリス領インドは、東南アジア経営の拠点でもあった。80年代にビルマ(ミャンマー)を併合したイギリス領インド。90年代に入るとマレー半島とその東岸スマトラ島にマレー州を成立させた。
マレー州は、インド洋と中国・日本を結ぶマラッカ海峡を抑えるとともに、すず鉱山の経営やゴム農園で収益を上げていた。
東南アジアの半島部は、独立国のタイ王国を挟んで、東にフランス植民地、西にイギリス植民地(イギリス領インド)の形になった。
次回予告
イギリスは、どのようにインドを支配していったのか
イギリス領インドはなぜ、ビルマを併合したのか
「1880年代のインド イギリス領インド インドに議会ができる」
お楽しみに
このころ、日本は
このころのヨーロッパ情勢は
分割される中国は