10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。

1890年代のフランス 第三共和政 ドレフュス事件とアジアアフリカの植民地化。

 1880年代からはじまった植民地獲得競争は、90年代に入るとドイツが本格参戦を始めた。そのような中、フランスは、アフリカではアルジェリアを、アジアではベトナムを拠点に進められた。アフリカでは、アフリカ横断政策をすすめる。アジアでは、清王朝日清戦争に敗北。中国分割が始まった。
 そのような中、フランス政治では、ドレフュス事件で世論を失っていた。

 ドイツが植民地獲得競争に参戦(ヨーロッパ情勢)

 ドイツでは、ヴェルヘルム2世がビスマルクを解任。このころのドイツは、産業革命に成功し、農業国から工業国へ転換した。植民地獲得競争に参加を始めた。ドイツは、オスマン帝国と結びつき、3B政策をすすめた。この政策はイギリスを警戒させた。ドイツは、90年ロシアとの再保障条約の更新を見送った。
 フランスは、91年ロシアと交鈔を開始、94年露仏同盟を締結。フランスは、ビスマルクのフランス孤立化政策から脱却できた。これにより、ヨーロッパは、ドイツ、イギリス、ロシア・フランスの3極体制となった。
 99年、ハーグ万国平和会議。ロシアのニコライ2世が提唱。国際仲裁裁判所の設置を決議。しかし、実行力がなく、第一次世界大戦へつながる。

アフリカ横断政策(アフリカの植民地化)

アルジェリアチュニジアなど北アフリカを植民地化していた。しかし、ウラビーの乱でエジプトへの影響力を失っていた。そのため、スエズ運河にかわるインド洋へのルートを模索していた。それがアルジェリアからサハラ砂漠をぬけ、紅海沿岸の東アフリカの独立国エチオピアをぬけて、ペルシア湾経由でインド洋に抜けるルートをとった。
94年、フランスはサハラ砂漠フランス領西アフリカを建国。同じ94年、エチオピアから紅海沿岸のジブチを譲り受ける。
 当時のエチオピアは、イギリス領エジプト、イタリアに敗戦し、これらの国と戦える協力者を求めていた。
当時のイギリスは、スーダン(エジプトの南)でマフディーの乱がおきていて、エチオピアに介入できなかった。
98年、マフディーの乱が鎮圧。同じ98年、スーダンファショダフランス軍とイギリス軍が急接近。フランス軍が譲歩して軍事衝突に至らなかった。(ファショダ事件)

日清戦争と三国干渉(ベトナムの植民地化)

 アジアでは、日清戦争清王朝が敗北。遼東半島が日本領となった。満州に権益を広げたいロシアは、露仏同盟をむすぶフランスとアジアに拠点を持ちたいドイツをさそって、三国干渉を行った。日本政府は、遼東半島を返還する代わりに賠償金を積み増した。三国干渉の見返りと賠償金の援助のため、清王朝は、ロシア、フランス、ドイツに租借地を与えた。フランスのアジアの拠点はベトナムである。そのため、香港以西の広東省、広西省、雲南省を勢力圏とし、広州湾を租借した。


第三共和制の危機、ドレフュス事件

92年パナマ運河会社破綻事件に関する収賄事件が発覚。翌93年議会選挙で保守派大物議員が落選した。94年ユダヤ系軍人ドレフュスがスパイ容疑で逮捕。しかし、これが誤審であることが判明。軍部は世論の支持を失う。この事件により98年のファショダ事件ではイギリスと戦闘ができなかった。
また、労働組合ゼネストによって、議会によらずに社会主義の実現をめざすサンディカリズムが現れた。

 

このころの日本は

 

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 このころの中国は

 

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