10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。HPを開設しました。https://sekaishiotaku.com/

1900年代のイギリス 日露戦争の勝利で英露関係が大幅に改善。

 1900年代、日本は日露戦争の勝利に沸いていた。この勝利によって、日本は関税自主権を回復した。その時、日本を裏で支援していたのがイギリスであった。

 イギリスは、日本、フランス、ロシアと同盟や協商が成立。これにより、ドイツVSイギリスの第一次世界大戦の構図が完成していく。

 

 前回の復習 1910年代の復習

 1910年代、ヨーロッパは2大グループに分かれていた。イギリスを中心としたグループとドイツを中心としたグループである。今回は、イギリス側のグループの形成過程を見ていきます。

イギリス王室、ヴィクトリア時代が終わる。

 01年、63年にわたるヴィクトリア女王の時代が終わり、エドワード7世が即位した。ヴィクトリア女王は、現在のエリザベス2世に次ぐイギリス史上で2番目長さの在位期間を持つ。ヴィクトリア女王が即位した1830年代は、産業革命直後で世界の工場とよばれる工業国となっていた。

自治運動の激化

 02年、南アフリカ戦争に勝利。これにより、イギリスは大きな負担を強いられた。そのため、イギリス政府は植民地の政策を転換。自治権を拡大するようになった。

 03年には、オーストラリア連邦が成立した。当時のイギリスの太平洋で植民地政策はオーストラリアを拠点に太平洋南東部に拡大していくようになった。

 04年には、アイルランド土地法が成立した。

イギリス議会は、自由党長期政権が始まる。

 00年代、イギリスは保守党政権であった。この時期に、英仏協商や日英同盟が成立した。バルフォア書簡で有名なバルフォアはこの時期に首相になった。

 しかし、バルフォア首相とエドワード国王の関係の悪化や自由貿易についての党内不一致で05年政権交代が行われた。ここから第一次世界大戦後の22年まで自由党政権がスづいている。

南アフリカ戦争による衰退から三国協商

南アフリカ戦争

 99年、南アフリカで、イギリス軍とオランダ系入植者との戦争が始まった。02年、イギリスの勝利に終わるも、多くの税金がここに使われた。

中国情勢と日英同盟

 このころ、中国は清王朝の時代である。清王朝は1890年代の日清戦争の賠償金でフランス、ドイツ、ロシアが租借が始まった。中国分割である。イギリスは、当時アロー戦争で長江流域に勢力圏を持っていた。しかし、南アフリカ戦争で中国まで軍隊を送る余力がなくなっていた。そのため、アジアでのパートナーを求めていた。そこで白羽の矢が立ったのが日清戦争に勝利した。日本である。02年、イギリスは日本と日英同盟を締結した。

英仏協商

 フランスとは、18世紀には、アメリカとインドをめぐり植民地競争を繰り返し、19世にはアフリカと東南アジアで植民地競争を行っていた。しかし、ドイツの台頭により、2か国間の関係は急速に改善した。

 アフリカでは、イギリスのエジプト(アフリカ北東部)の権益とフランスのモロッコ(アフリカ北西部)の権益を各々承認しあった。

 一方、東南アジアでは、イギリス(インド)のミャンマー(東南アジア西部)の権益とフランスのベトナムでの権益、そして緩衝地帯としてタイ王国ラタナコーシン朝)の独立が確認された。

 英仏協商によって、互いの植民地の承認を行とともに、のちに行われる日露戦争について互いに中立を守ることが約束された。

日露戦争

 各国の想定のとおり、朝鮮半島をめぐり日露戦争は勃発した。一歩間違えればこの戦争が第一次世界大戦になる可能性もあった。しかし、事前に取り決めた英仏協商によって、英仏が中立を保ったため大きな戦争まで発展しなかった。(当時、ロシアとフランスで露仏同盟が成立していた。)

 陸上海上ともに日本はロシアに辛勝な状態であった。戦争は均衡状態が続いていた。ロシアは、ヨーロッパに駐屯していたバルティック艦隊を日本へ派遣した。イギリスは南アフリカとインド、マラッカ海峡でこれを妨害した。これによりバルティック艦隊は疲弊した状態で日本にたどり着いた。これに日本海軍は勝利した。(日本海海戦)この時の将軍が東郷平八郎であった。

 ロシアで血の日曜日事件が発生。ロシアは戦争を継続できなくなり終戦した。

ポーツマス条約

 日本政府は、辛勝になることを予想していた。そのため、あらかじめアメリカを通じて和平交渉を行う予定であった。日本海海戦の勝利やロシアが血の日曜日事件で混乱していることをみて、この和平交渉に入った。

 これにより、ロシアは、朝鮮半島遼東半島東シナ海)から撤退することになった。これにより、華北は、朝鮮半島遼東半島に権益を持つ日本と山東省を租借するドイツの対立になった。一方、江南地方は長江流域はイギリスが権益を持つようになった。

 このころ、当の中国は辛亥革命がおこり、清王朝が幕を閉じ、中華民国が建国された。

英露協商

 日露戦争終結によって、イギリスとロシアの対立は解決した。07年、英露協商が成立した。今回の協商では主に中央アジアについて話し合われた。カジャール朝はペルシアは、中央に緩衝地帯をおいて、北をロシアが、南をイギリスの勢力圏とした。アフガンは、イギリスの保護国とした。また、チベットはこのとき、清王朝の支配権を認めた。

 この英露協商によって、イギリスは日本、フランス、ロシアを味方につけた。そして10年代の第一次世界大戦につながっていく。

 

この頃の日本は

 

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 このころのロシアは

 

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