1900年代、ロシアは日露戦争に敗北。その後、ロシアはイギリスと英露協商を締結。19世紀100年間にわたる、イギリスとロシアのグレートゲームはここに終わる。
一方、このころ革命勢力が次々と結成されていた。
義和団の乱で中国分割は促進
98年 ロシア社会民主労働党成立(マルクス主義)
都市部を中心とした社会主義政党
中国で始まった反キリスト教運動
清王朝は、この運動を支援、ヨーロッパ列強に宣戦布告
ロシアは、日本などと8か国共同出兵
01年 清王朝と北京議定書を締結
清王朝は、列強各国に多額の賠償金を支払う
列強は、北京に軍隊を駐留
01年 社会革命党成立(ナロードニキ)
農村を中心とした社会主義政党
→ ロシアに脅威を感じたイギリスは日英同盟を締結
03年 ロシア社会民主労働党分裂
メンシェヴィキ
資本家と協調姿勢
日露戦争に敗北
04年 英仏協商
英仏両国は日露戦争で中立を保つ
→ 日露戦争の 第一次世界大戦化を回避
04年02月 日露戦争
05年01月 血の日曜日事件
デモを武力鎮圧 → ニコライ2世の信用が失墜
05年06月 水兵の反乱
国会開設とストルイピン
05年10月 立憲民主党結成
資本家を中心とした自由主義政党
05年10月 十月宣言 → 国会開設を約束
06年 ストルイピンの反動政治
ミール(農村共同体)の解体
→ ナロードニキへの対抗
皇帝権限の強化
07年 英露協商
三国協商の結成
イラン、アフガニスタン、チベットなどの両国の勢力圏を定める。
イギリスとのグレートゲームがここに終わる。
1910年頃のロシアの状況
外交
三国協商側 フランス(露仏同盟)、イギリスなど
革命勢力
立憲民主党 資本家を中心とした社会主義勢力
ナロードニキ 農村を中心とした社会主義勢力
メンシェビキ 都市労働者向け社会主義政党
立憲民主党と協調路線
ボリシェヴィキ 都市労働者向け社会主義政党
立憲民主党と対決路線
政治情勢
ストルイピンの反動政治 王権強化へ
次回予告
「1890年代のロシア ロマノフ朝 アレクサンドル2世 露仏同盟と中国進出」
このころの日本は
英露協商が発表されたペルシアは
同盟国、フランスの状況は