10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。HPを開設しました。https://sekaishiotaku.com/

1870年代のインド インド帝国の成立

 1870年代、日本でいえば明治時代の初頭である。

 このころ、インドはイギリスの植民地であった。このとき、ヴィクトリア女王インド帝国の皇帝を兼任。インド帝国が成立した。

 このころ、イギリスは、スエズ運河の買収に成功。また、第2次アフガン戦争が勃発。インド帝国の重要性が増してきた時代である。

 

前回の復習

 80年代、ヨーロッパ諸国は帝国主義に向かい始めていた。そのころ、インドでは国民議会(国会)が成立。また、イギリス領インド帝国は、東南アジアのミャンマーを併合した。

 

ヨーロッパ情勢 70年代の不況から帝国主義政策へ突き進む

 普仏戦争で、ビスマルク率いるドイツがナポレオン3世のフランスに勝利。このあと、ビスマルク外交により、ヨーロッパに平和がもたらされる。ビスマルク外交の最大の功績は、露土戦争後のベルリン会議である。ヨーロッパ各国は植民地経営に注力できる余力ができた。
 このころになると社会主義運動が活発化した。社会主義は、簡単に言うと労働者のための政治を行うことです。具体的には、貴族などの特権階級や資本家の財産を国家権力等によって奪い国民全体に再配分しようとする政策です。普仏戦争に敗れたフランスでは、パリ市に社会主義政権パリコミューンが成立。政府や資本家は危機感を覚えた。そのため、資本家と政府(国王など)の結びつきが強まり、資本家の意見が政治に反映されやすい世の中になった。
 一方で、70年代にはいり、不況に入った。ヨーロッパで物が売れなくなった資本家は、植民地に販売ルートを求めた。
 これにより、70年代以降のヨーロッパの重要な政策は植民地獲得競争となった。この政策を帝国主義と呼ばれる。

イギリス本国の情勢、

 このころ、イギリスは弱者にやさしい政策がとられた。アイルランド土地法や労働組合法である。この背景には2つの要因がある。一つは2大政党制の確立である。これにより選挙に勝つ重要性がかなり高まった。もう一つは、60年代の第2回選挙法改正で都市労働者に選挙権が与えられたことである。

 一方で、2つの政党は、植民地政策を推し進めた。その一つがスエズ運河の買収である。

イギリス、スエズ運河買収

 スエズ運河とは、エジプトになる地中海とインド洋を結ぶ運河である。この運河はエジプトとフランスの共同出資で1869年に完成した。

 イギリスは、インドへの航路を短くするため喉から手が出るほどこの運河を欲していた。とくに、50年代に起きたシパーヒーの乱はこの需要を高めた。

 そこに朗報が届く。エジプトの財政難である。エジプトは当初フランスに支援を求めたが、普仏戦争敗北後でエジプトを支援する余裕がなかった。イギリスはそこに目を付けた。イギリスは、エジプトの保有するスエズ運河株を買収し、スエズ運河の航行権を得た。

 また、露土戦争後のベルリン会議オスマン帝国から東地中海のキプロス島を得る。これにより、エジプトへの影響力をさらに高めた。

 スエズ運河の買収により、インドへの影響力をさらに高めた。イギリスの植民地政策は、インドのカルカッタ、エジプトのカイロ、南アフリカケープタウンを中心とした3C政策となった。

イギリス領インド帝国成立

 50年代のシパーヒーの反乱ムガル帝国は滅亡。また、東インド会社も解散した。イギリスは、本国にインド大臣とインド省を置いた。インドには、イギリス人の提督とイギリス人の参事会が置かれた。

 77年、イギリスは正式にインド帝国を建国した。皇帝はヴィクトリア女王が兼任し、副王としてインド総督を派遣した。

第2次アフガン戦争

 イギリス領インドとアフガン王国は交戦状態にあった。しかし、50年代のシパーヒーの反乱で休戦状態にあった。

 露土戦争に敗北したロシアは、中央アジアへの進出を強めていた。インドの北西にある中央アジアのアフガン王国は、そのロシアと軍事同盟を結んだ。これに危機感をいだいたイギリス領インド帝国は、アフガン王国へ外交使節の派遣を要請した。しかし、アフガン王国はこれを拒否。第2次アフガン戦争へ発展した。

 79年、アフガン王国は敗北。外交権をイギリスに渡し、保護国(内政は自由に行えるものの外交権を他国に渡している国)となった。

 しかし、アフガン国民はこれを認めなかった。反乱軍がイギリス外国使節をい殺害。再びイギリス領インド帝国軍がアフガンへ侵攻。しかし、イギリス領インド帝国軍はこれに敗北した。1900年代の英露協商までこの問題は解決しなかった。

このころ日本は

 

sekaishiotaku.hatenablog.com

 イギリスのライバル、ロシアの情勢は

 

sekaishiotaku.hatenablog.com