1950年代、日本は朝鮮戦争特需で戦後復興を成し遂げた。GHQからの独立を果たしたのもこのころ。政治面では自民党と社会党の55年体制が確立した。
このころ、イギリスは第二次世界大戦を勝利に導いたチャーチル氏が再び党首になった。この後保守党政権が続く。世界的には冷戦が深刻化する一方で、第三勢力の台頭が激しくなった。その最たるものがスエズ戦争(第二次中東戦争)である。
- 前回の復習 196年代のイギリス
- フランス VS イギリス 経済戦争
- 第二次世界大戦の英雄、チャーチル内閣復活
- 元外相イーデン首相、スエズ戦争でアメリカに裏切られる。
- 第二次世界大戦の英雄 マクミラン首相 保守党
前回の復習 196年代のイギリス
1960年代、イギリスは不況に苦しんでいた。フランス・西ドイツによるECの設立や日本の高度成長期で苦しんでいた。また、60年のアフリカの年以降、世界中の植民地を失っていた。
政治面では、景気の悪化により保守党政権が敗北。労働党政権が復活した。
フランス VS イギリス 経済戦争
50年代、イギリスは親米路線をとっていた。一方で、フランスはアメリカに太刀打ちできる経済圏を作ろうとした。そのために手をつないだのが49年に成立したに西ドイツである。
51年、フランス、西ドイツは欧州石炭鉄鋼共同体を結成。これはアルザス=ロレーヌの鉱山をめぐる戦いの結果である。
57年、フランス、西ドイツはEEC(欧州経済共同体)という経済同盟を結んだ。
これに危機感を抱いたイギリスは、北欧4か国と中欧のオーストリア、スイス、ポルトガルとともにEFTA(欧州自由貿易連合)結成した。
第二次世界大戦の英雄、チャーチル内閣復活
保守党と労働党
51年、保守党チャーチルは、労働党アトリー氏を破り再び首相になった。この時期の政党の違いは外交面に現れる。このあと、15年にわたり保守党政権が続く。端的に言えば、保守党は親米であり、労働党は親ソである。これは日本の55年体制にも当てはまる。イギリスの保守党に近いのが自民党であり、労働党に近いのが社会党である。
これは、ECへの参加の遅れにも表れた。当時、フランスはアトリー内閣に近い左派政権であった。そのため、アメリカに対抗できる勢力を作ろうとしていた。そのパートナーに選んだのが西ドイツである。51年の欧州石炭鉄鋼共同体がそれである。
膨張する国家財政
イギリスの国家財政は膨張を続けていた。その要因は2つである。社会保障費と軍事費である。そのため、対外債務は増大した。
アトリー労働党内閣「ゆりかごから墓場まで」の福祉政策により社会保障費は増大した。一方で、広大なイギリス連邦(植民地)の維持で軍事費は増大していた。さらに、冷戦によって更なる軍事費増大が求められた。
チャーチルは、アトリー労働党内閣が国有化した企業を次々民営化した。これは、60年代に労働党政権になると再び国有化される。しかし、国家財政を改善することには至らなかった。これにより、イギリスは多くの植民地を放棄するようになるとともに20年にわたる英国病不況に悩まされる。
スエズ戦争の前哨戦、イランのモザデク首相の石油国有化宣言
イランは、パフレヴィー朝の時代である。第二次世界大戦期にはイギリス・ソ連の重要な拠点であった。当時、イギリスは、イランに油田を持っていた。(1906年操業)
50年、アメリカとサウジアラビアの共同で油田開発を行うことが発表された。イランのモサデク首相は、油田の利益の折半を求めた。イランとイギリスは交渉を続けたが、51年6月交渉は決裂。イランのモサデク首相は急遽、イギリスの油田の国有化宣言を行った。当時は、まだアトリー労働党内閣の時代である。膨大する国家財政を維持するためには油田利権は必要不可欠であったものと思われる。
交渉決裂後に首相になったチャーチル首相は、イランへ経済制裁を行った。これによりイランの経済は困窮した。53年、王党派のクーデターでモサデク首相は失脚。パフレヴィー国王の親米政権が樹立された。モサデク首相が国有化した油田は英米の石油メジャーによる共同管理となった。
余談だが、「海賊と呼ばれた男」のモデルとなった日章丸事件はこの時に起きた。
「雪解け」とジュネーヴ休戦協定
52年 核実験に成功 、3番目の核保有国へ
アイゼンハワー大統領とフルシチョフ書記長
アメリカでは冷戦を指揮したトルーマン大統領から同じ共和党のアイゼンハワー大統領に政権交代が行われた。アイゼンハワー大統領は第二次世界大戦でヨーロッパ戦線で活躍した軍人である。
一方、ソ連では第二次世界大戦を指揮した独裁者スターリンが亡くなる。フルシチョフ書記長が誕生した。
この政権交代により、米ソ冷戦は一時収束する。「雪解け」である。
ジュネーブ休戦協定 朝鮮戦争とインドシナ戦争の講和会議
54年4月、世界の首脳はスイスのジュネーブに終結した。朝鮮戦争とインドシナ戦争の講和条約のためである。インドシナ戦争はベトナムのホーチミン親ソ政権によるフランスからの独立戦争である。一方、朝鮮戦争は北側の親ソ政権(北朝鮮)と南側の親米政権(韓国)との戦争である。ベトナムも朝鮮もこの講和会議で南北に分断された。北側に親ソ政権、南側に親米政権が樹立された。
第三勢力の台頭 中華人民共和国の周恩来首相とインドのネルー首相
ジュネーヴ講和会議には、中華人民共和国の周恩来首相やインドのネルー首相も呼ばれた。周恩来首相とネルー首相は、この時平和五原則声明を行った。これが翌55年のバンドン会議につながる。この2か国はアトレー労働内閣の負の遺産といえなくもない。インドは、インド独立法で成立した国である。一方、中華人民共和国は実質的に中国を支配しているがこの当時多くの国で国家承認されていない。しかし、イギリスは中華自民共和国成立時にすでに国家承認がしている。
世界3番目の核保有国へ
イギリスは、52年に核実験を成功。アメリカ、ソ連に次ぐ3番目の核保有国となった。
エリザベス2世女王即位
52年、現在のイギリス女王エリザベス2世はこの時に即位した。現在、最高齢の君主である。
エヴェレスト初登頂
エヴェレストは、ネパールと中国の国境にある世界最高峰の山である。
エリザベス2世が即位した翌53年、イギリスの登山家グループがエヴェレストの初登頂を果たした。
19世紀初頭に、イギリス東インド会社の保護国になる。51年に立憲君主制に戻る。
元外相イーデン首相、スエズ戦争でアメリカに裏切られる。
イーデン首相は、第二次世界大戦時の外務大臣である。イーデン首相は後に首相になる第二次世界大戦の英雄マクミランを外務大臣に迎えた。
四巨頭会談とバンドン会議
55年4月、インドのバンドンでバンドン会議が開かれた。ここで第三勢力の結束が固められた。これにより、対立の構図が米ソの横の対立から、英仏の旧帝国VS米ソ新興勢力・第三勢力縦の対立構造に変化した。これがのちのスエズ戦争やアフリカの年につながる。
これに脅威を感じた英仏は55年7月ジュネーブ四巨頭会談を行った。参加国は常任理事国の英米仏ソである。(残りの常任理事国は中華民国)。ここで、米ソの平和共存が再確認された。
第二次中東戦争(スエズ戦争)
スエズ撤兵
前政権のチャーチル首相は、ジュネーブ休戦協定後スエズから撤兵を行った。財政難のイギリスとしては軍事費の削減の一環である。
クーデターでナセル首相が誕生
エジプトは、52年クーデターにより王政が倒れ共和国になった。56年にナセル首相が誕生した。
ナセル首相、スエズ運河国有化宣言
ナセル首相は、ナイル川にアスワン=ハイダムの建設を行った。この資金は米ソから資金調達を行う予定であった。
一方で、ナセル首相は第一次中東戦争で敗北したイスラエルとの再戦に備えてひそかにソ連から武器の輸入を行っていた。当時アメリカはイスラエルを支援していたため、アメリカからの武器輸入はできなかった。
ソ連からの武器輸入がアメリカに発覚。アメリカはアスワン=ハイダムの建設資金の提供を拒否した。
ナセル首相は、この資金繰りを確保するため、イギリス・フランスが共同統治するスエズ運河を国有化した。
スエズ出兵(第二次中東戦争)
イギリスは、フランス・イスラエルとともにエジプトへ出兵した。当時、フランスはスエズ運河の問題のほかにアルジェリア内戦にナセルが関与している疑いから出兵を決めた。イスラエルは、第一次中東戦争以降エジプトを敵視している。
戦闘は、イギリス軍のワンサイドゲームであった。これでアイゼンハワー大統領率いるアメリカ軍が参戦すればイギリス側の勝利で終わるはずであった。
アメリカの裏切りでスエズ戦争に敗北
これに対し、第三勢力は猛反発した。ソ連もエジプトを自陣営に入れる好機とと足ら得ていた。
アメリカのアイゼンハワー大統領は、このような背景でエジプト出兵ができなかった。これにより、イギリスはスエズ戦争(第二次中東戦争に敗北した。)
アイゼンハワー大統領が出兵しなかった理由は、4つある。1つ目は国際世論がエジプト支援に向かっていた。2つ目は、エジプトがソ連陣営に入ることを懸念した。3つ目に、エジプトから英仏の影響力をそぎアメリカの影響力を確保したかった。そして、4つ目がアメリカの行動を見るうえで重要なワードである。56年が大統領選の年であった。
アフリカの年へ
イギリスは、スエズ戦争の敗北を受けて60年代次々植民地を放置するようになる。
一方で、フランスは、第四共和政が崩壊。ド・ゴールによる第五共和制が始まる。
ビートルズ結成
イギリス、リヴァプールでロックバンドが結成された。ビートルズである。
第二次世界大戦の英雄 マクミラン首相 保守党
マクミラン首相は、第二次世界大戦の軍人英雄として人気が高い。イーデン首相時には外務大臣として活躍した。
保守党イーデン首相は、スエズ動乱で国際的に批判を浴びた。とくにアメリカとの関係は悪化した。それにより、イーデン首相は辞任した。
イーデン首相の後継になったのは、マクミラン首相である。マクミラン首相は、英米の関係改善に努めた。アメリカ共和党のアイゼンハワー大統領とマクミラン首相は第二次世界大戦の軍人時代からの戦友である。これにより、英米関係は改善された。