1870年代のイギリス グラッドストン自由党とディズレーリー保守党
1870年代、日本は明治時代。西郷隆盛が西南戦争で敗北。明治新政府の重鎮、大久保利通も暗殺された。
このころ、イギリスはヴィクトリア女王の黄金期である。政治面ではグラッドストン自由党とディズレーリー保守党の2大政党制の絶頂期である。グラッドストン自由党で都市労働者にやさしい政治を行った。一方でディズレーリー保守党は植民地拡大で経済成長を求めた。
前回の復習 80年代の第二次グラッドストン自由党内閣
80年代、強いグラッドストン自由党内閣が成立した。このころから植民地拡大を吸進めるようになった。今回の後半で、イギリス帝国の基盤を作ったディズレーリー保守党の政策とディズレーリー保守党がなぜ衰退したのかを見ていきます。
グラッドストン自由党内閣の都市労働者にやさしい政治
普仏戦争でフランスに労働者政権パリコミューンが成立
1870年代は普仏戦争によって幕が上がった。
グラッドストン首相は、普仏戦争に対して、ロシア、オーストリア、イタリアと連携し中立の立場をとった。また、フランスとドイツに中立の維持を要請した。
フランスは、この戦争に敗れナポレオン3世が失脚。第三共和政に向かった。パリでは一時労働者政権(パリ=コミューン)が成立した。この事件は資本家に恐怖感を与えた。これは政策にも影響し、労働者にやさしい法案が次々成立した。
一方、プロイセンはドイツ帝国の統一を宣言した。この戦争でビスマルクは世界的に影響力を持つようになる。ビスマルクは、フランス孤立化政策を進める。東欧の大国、ロシアとオーストリアとともに三帝同盟を結成した。平和外交を求めるグラッドストン自由党はこれに参加しなかった。
この混乱に乗じて、ロシアはクリミア戦争のパリ条約で締結した黒海艦隊保有禁止条項を破棄した。
初等教育法
普仏戦争のプロイセンの勝利、アメリカ南北戦争で北軍の処理で初等教育の重要性が認識された。また、第2回選挙法改正で選挙権が拡大。選挙権のある人に最低限の知識を持たせる必要があった。
軍隊と官僚制度の改革
全省庁で採用試験制度を導入。官僚が貴族から高学歴エリートに変った。しかし、高等教育を受けられるのは貴族に限られた。そのため、大きな影響はなかった。
また、将校の階級買い取り制度を廃止した。
秘密投票法成立
いわゆる投票箱に投票する仕組みがこの時に成立した。それまで、選挙は口頭で公開式に行われた。そのため、有力者の脅迫で投票行動が操れた。この秘密投票法で労働者は自由に投票行動を行うことができるようになった。
労働組合法成立
スエズ運河を買収したディズレーリー保守党政権
グラッドストン自由党内閣は、アイルランド大学改革否決に対し、総選挙にうってでた。しかし、初等教育法や労働組合法の問題点が表面化や自由党の分裂で総選挙に敗北。これにより、ディズレーリー内閣が成立した。
ディズレーリー首相は、植民地拡大を進めた。その代表例がスエズ運河買収である。
エジプト進出へ
露土戦争とサンステファノ条約
76年、オスマン帝国内のボスニア・ヘルツェゴヴィナの蜂起した。バルカン諸国のセルビア公国とモンテネグロ公国がボスニア・ヘルツェゴヴィナを支援した。77年、ロシアもオスマン帝国に宣戦布告。露土戦争が勃発した
イギリス世論は、オスマン帝国に同情的になっていた。平和外交を進める野党グラッドストン自由党は戦争に否定的であった。当然、ディズレーリー内閣は露土戦争に参戦する準備を進めていた。ロシアはイギリス参戦前に有利な条件でオスマン帝国と講和した。サンステファノ条約である。この条約で、ロシアは地中海に拠点を持つことが可能になった。
普仏戦争でフランスが弱ってる隙にスエズ運河買収
エジプトは、財政難にあえいでいた。スエズ運河建設など資金が枯渇した。そのため、エジプトはフランスに支援を求めようとした。しかし、フランスはこの時普仏戦争の敗北でエジプトを支援する余裕はなかった。
ディズレーリー首相はこれをチャンスととらえた。ディズレーリー首相はユダヤ人仲間のロスチャイルド家か資金を調達。この資金をもとにエジプトからスエズ運河株を買収した。それでもエジプト財政は回復せず、エジプトはフランスとイギリスから財政顧問を迎えるようになった。
ディズレーリー首相が、ロスチャイルド家から資金調達が可能になったのは多くの金融機関が集中した。これは1810年代に導入した金本位制の影響である。
ベルリン会議 エジプトの防衛拠点キプロス島を得る。
ロシアは、サンステファノ条約で地中海に拠点を持つことに成功した。このことは、スエズ運河の買収に成功したディズレーリー首相に危機感を与えた。
このロシアとイギリスの対立の仲介役をになったのは、この時期のトップ外交官ドイツのビスマルクが担った。これにより、ロシアは地中海への進出を逃した。
ロシアはこれで、地中海進出をあきらめ、中央アジアや極東へ向った。中央アジアでは直後に第二次アフガン戦争を引き起こし、1900年代には日露戦争を引き起こした。
また、ドイツはこの手法をもう一度使うことになる。これが、1890年代の日清戦争後の三国干渉である。この会議で、ロシアとオーストリアの関係が悪化。普仏戦争で結ばれた三帝同盟はこの時破棄された。ビスマルクは新たな国際秩序をここで求められた。
この会議で、イギリスはオスマン帝国より東地中海のキプロス島を獲得した。
インド帝国成立 と 第二次アフガン戦争
3C政策の一つインドはこの時期、インド帝国が成立した。1850年代のインド大反乱で東インド会社の解散が決定された。東インド会社の清算手続きが完了し、インドはイギリスの直轄領になった。インド国王はヴィクトリア女王兼任した。
このころ、ベルリン会議でロシアは地中海進出にまたストップがかかった。そのためロシアは再び中央アジアへの進出を試みた。アフガン王国はこれを好機とみてロシアと軍事同盟を締結した。インドに進出したイギリスはこれに危機感を感じ、アフガン王国に使節を置くことを要求。アフガン王国はこれを拒否。第二次アフガン戦争が勃発した。これにイギリスは勝利。アフガン王国を保護国とした。
77年 第一次南アフリカ戦争
このころ、3C政策の拠点となった南アフリカの状況はどのようになっていたのだろうか。
南アフリカ内陸部は、ケープ植民地を追われたオランダ系白人がオレンジ自由国を建国していた。南アフリカは、もともとオランダの植民地であったが19世紀初頭のナポレオン戦争期にイギリスの植民地となった。
南アフリカ内陸部(オランダ自由国)でダイヤモンド鉱山が発見される。イギリスはオランダ自由国を併合しようとした。オランダ系入植者はこれに抵抗、イギリス軍との戦争が始まった。81年にイギリス軍は大敗。オランダ系入植者に大幅な自治権を与えることになった。
オーストラリアでは、フィジーを併合
太平洋では、オーストラリア、ニュージーランドを中心に南東部に領土を拡大していた。このころ、太平洋南東部のフィジーの領有を宣言した。
77年 不況と農業不作
ディズレーリーの自由党政権も長くは続かなかった。
77年、不況とともに農業が不作となった。そのため、農産物価格が高騰した。これにより都市労働者の生活は困窮した。
保守党は、保護貿易政策で分裂した。保護貿易政策とは、関税率の引き上げや貿易に規制をかけることで輸入を制限し、国内産業を守る政策である。国際競争力の弱い産業には有利になるが、国際競争力の強い産業では不利に動く。イギリスの場合、農産物に関税をかけることが多い。そのため、保護貿易政策は地主に有利な政策である。一方で、都市労働者の場合、農産物価格の高騰につながるとともに報復関税で輸出にも不利に働く。そのため保護貿易政策に否定的になる。
ディズレーリー首相は都市労働者の世論を受けて保護貿易には否定的であった。しかし、保守党の一部の議員は地主層の支持で議員になっているので、保護貿易政策を強く求めた。そのため、ディズレーリー首相は求心力を失った。
一方、自由党は、自由貿易の一枚岩のためこの分裂は起こらなかった。これにより、80年の総選挙で保守党が敗北。ディズレーリー首相は退陣した。
この頃の日本は