10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。HPを開設しました。https://sekaishiotaku.com/

1830年代のイギリス ホイッグ党グレイ首相の第一回選挙法改正

 1830年代、日本は江戸時代後期。化政バブルの時代が終わり、寛政の大飢饉が発生していた。大塩平八郎の乱がおこったのもこのころである。

 このころ、イギリスでは選挙法改正がおこなれた。これにより資本家(工場経営者)にも参政権が与えられた。外交では、パーマストンが活躍。アジアへの進出を始めていた。

 

前回の復習 保守党 ピール政権

 40年、アヘン戦争が勃発。また、インドではアフガン戦争が勃発した。これらの強引なアジア進出によってホイッグ党が敗北。保守党ピール政権が成立した。

 


第一回選挙法改正

トーリ党の分裂でホイッグ党グレイ政権樹立

 フランス革命以降、トーリ党の長期政権が続いていた。ホイッグ党は万年野党の立場にあった。
 ギリシャ独立戦争でトーリ党が分裂していた。パーマストンカニング派がトーリ党を離脱してホイッグ党に入党した。これにより、ホイッグ党のグレイ政権が成立した。紅茶のアールグレイで有名な首相である。

 同じ年、ウィリアム4世が国王に即位した。

 日本でも、1993年自民党が分裂。小沢一郎らが自民党を離党した。これにより自民党の長期政権が終わり、細川連立政権が成立した。しかし、現在残っているのは自民党で、小沢一郎が作ったこの時作った政党(新生党)は今は残っていない。

 イギリスも同様で、現在残っているのはトーリ党を前身とした保守党である。ホイッグ党を前身とした自由党は少数政党になっている。

 ホイッグ党とは、もともと議会では反王党派の立場をとっていた。フランス革命ナポレオン戦争でトーリ党(王党派)が活躍したため、長期にわたり政権から遠ざかっていた。
 一方、パーマストンカニング派は、カトリック救済法を推進していた。これにより、アイルランド人に好意的に受けとられていた。また、資本家(経営者)と結び、ギリシア独立戦争を推進した。これは、ギリシャに工業品を輸出したい思惑があった。


18世紀までのイギリス議会は

 イギリス議会は、貴族が国王に抵抗するために作られた政治機関である。そのため、選挙権は貴族である地主にしか与えらていない。
 しかし、17世紀のイギリス革命によって議会の権限は強くなった。そして、18世紀初頭のハノーヴァー朝の成立によって、立憲君主制(法律や議会の決定によって国王が政治を行う仕組み)や責任内閣制(行政は国王の代わりに首相が行い、その代わりに首相と議会に責任を負う)が成立。イギリス議会は国権の最高機関となっていた。

産業革命による2つの変化

 18世紀の産業革命は、イギリスに対して2つの大きな変化をもたらした。
 一つ目は、人口分布の変化である。産業革命により、農村から都市部大規模な人口移動が起きた。これにより、一票の格差問題が発生した。これを世界史用語で腐敗選挙区問題という。具体的には人口の減った農村部では数百人で1議席になるのに対し、人口が急増した都市部では数万にで1議席を争うことになる。都市部の人々から不満の声が出ていた。
 日本でも、戦後同じことが発生している。農村部から都市部への大規模な人口移動が行った。これにより、農村部と都市部の一票の格差問題が今も続いている。
 二つ目は、新たな階級の誕生である。産業革命により都市部でも新たな階級が登場するようになった。機械設備をもつ資本家(いわゆる経営者)と資本家に雇われる労働者である。資本家は、豊富な資金力を持ち参政権を求めるようになっていた。とくに求めたのが、フランス産の安い農産物の輸入と工業製品の輸出先の拡大であった。これをかなえていたのがパーマストン外交であった。

ホイッグ党の思惑とフランス七月革命で実現

 ホイッグ党は資本家に人気のパーマストンを利用して議席を拡大したかった。そのため、腐敗選挙区問題の解決と資本家への参政権を実現したかった。しかし、現在選挙権を持っているのは、農村の地主階級である。この政策は彼らの特権を奪う選挙システムであった。
 しかし、グレイ首相に朗報が届いた。フランスの七月革命である。フランスで、資本家に支持された七月王政が誕生した。農村部の地主階級は、七月革命がイギリスに訪れることを恐れた。フランス革命期には、多くの地主が襲われた。今回もそうなることが予測された。(実際にはそのようにならなかったが、、、)。そのため、グレイの選挙法改正に賛同した。

復習、イギリスの選挙法改正

第1回 1830年ホイッグ党グレイ政権
 資本家に選挙権を与える。
 フランスの七月革命の影響

第二回 1860年代 保守党ラッセル政権
 都市労働者に選挙権
 ヴィクトリア女王の絶頂期

1870年代 自由党グラッドストン政権
 労働者にやさしい政治 → 労働組合
 選挙の脅迫を受けないように → 秘密投票法
 保守党の誤った政策に騙されないように → 義務教育の導入

第三回 1880年自由党グラッドストン政権
 小作人に選挙権(ほぼ、男子普通選挙
 ドイツ、アメリカに工業生産量で抜かれる。

第四回 1910年代 ロイド=ジョージ挙国一致内閣
 完全男子普通選挙と女性参政権
 第一次世界大戦の真っただ中

第五回 1920年代 保守党ボールドウィン首相
 男女完全普通選挙
 戦間期

労働者にやさしい政治
 工場法、イギリス国内の奴隷制廃止
 

パーマストン砲艦外交

18世紀前半の国際秩序

 18世紀の前半の国際秩序は、1810年代のウィーン会議に基づいていた。四国同盟(のちにフランスが入り五国同盟)と神聖同盟である。神聖同盟は現在の国際連合の役割をはたし、四国同盟は常任理事国を役割を果たす。そのため、国際紛争がおこると五か国が協議して解決した。

 その5か国は、イギリスの他、ロシア、フランス、オーストリアプロイセン(のちのドイツ)であった。

ベルギーの独立

 18世紀、ベルギーは、フランスの北東にある国である。18世紀ベルギーはスペイン=ブルボン家の領土であった。しかし、1810年代のウィーン会議でオランダ領となった。ベルギーはスペイン=ブルボン朝と同じカトリックであった。一方、オランダはスペインと戦争をするほどの強いプロテスタントカルヴァン派)の国である。ベルギーは苦しい生活を問われた。

 そのような中、フランスで七月革命がおこった。革命機運がベルギーにも伝わった。ベルギーはオランダからの独立を宣言した。

 当時、パーマストンは、各国の独立を支援する外交政策をとっていた。その理由は独立国が安いイギリス工業品の輸出先になるからである。パーマストンは直ちにロンドン会議を開催。オランダにベルギーの独立を認めさせた。

第一次エジプト=トルコ戦争

 エジプト提督、ムハンマド=アリーはギリシャ独立戦争の活躍によりエジプトの独立が認められた。ムハンマド=アリーはシリアの行政権を求めたが、オスマン帝国はこれを拒否した。

 当時、北アフリカアルジェリア)に進出していたフランスはムハンマド=アリーを支援した。一方、ギリシャ独立戦争で十分の領土を得られなかったロシアは、ロシア版外交革命を行った。長年、戦い続けたオスマン帝国と手を組んだのである。ロシアはその見返りにオスマン帝国にダーダネルス=ボスフォラス海峡の航行権を認めさせた。これにより、ロシアの軍艦は自由に地中海に出られるようになった。

 オスマン帝国は、エジプトに敗北。シリアの行政権をエジプトへ譲渡した。

中国貿易の自由化

 18世紀、アジア貿易は東インド会社に独占を与えていた。東インド会社に出資していたのは有力貴族であった。彼らの支持政党は保守党(トーリ党)である。

 一方、ホイッグ党の支持基盤は、資本家である。資本家は、中国貿易の参入を検討していた。

 パーマストン外相は、東インド会社の中国貿易独占権を廃止した。当時、東インド会社は、インド産アヘン(麻薬)の輸出で利益を上げていた。


35年 ホイッグ党ウィリアム首相とアジア進出

就任直後に国会議事堂焼失

 グレイ首相が引退すると、ウィリアム氏が首相に就任した。しかし、国会議事堂焼失事件が発生。この責任をとり辞任。政権をトーリ党へ返還した。しかし、トーリ党は少数与党で何もできず、ホイッグ党に政権を返還した。

ヴィクトリア女王即位

 37年、ヴィクトリア女王が即位した。ヴィクトリア黄金期に入った。ハノーヴァー朝はもともとドイツの国王であり、これまでのイギリス国王はドイツのハノーヴァー王を兼務していた。しかし、ドイツでは女性は国王になれない。そのため、ドイツのハノーヴァーとの同君連合は解消された。

労働者にやさしい政治

 このころ、都市での経済格差が問題となった。労働者階級による機械の破壊運動(ラダイト運藤)が行われた。また、都市労働者が参政権を求める運動も行った。チャーチスト運動である。

 ウィリアム首相もこれに配慮する政治を行った。一般工場法(労働基準法)を制定し、労働環境の改善に努めた。

パーマストン砲艦外交アヘン戦争

ニュージーランドの領有

 イギリスの太平用での拠点をオーストラリアである。このころ、イギリスはニュージーランドの領有を宣言した。

ロンドン会議で中東の勢力均衡を図る。

 39年、第二次エジプト=トルコ戦争が勃発した。エジプトはシリアの行政権をエジプトの行政権の世襲権をオスマン帝国に向かった。フランスはエジプトを、ロシアはオスマン帝国をそれぞれ支援した。

 イギリスのパーマストンは、ロシアとフランスに中東進出に警戒した。そのため、パーマストンはこの戦争の仲介を図った。40年のロンドン会議である。これにより、エジプトの世襲は認められたが、シリアはオスマン帝国の領有になった。これにより、フランスのシリア進出を止めることができた。一方で、オスマン帝国がロシアに対して認めたダーダネルス=ボスフォラス海峡の航行権を破棄させた。これにより、中東の勢力均衡を果たした。

アヘン戦争

 当時イギリス商人は、清王朝の南部でインド産アヘン(麻薬)の密貿易を行っていた。これに対し、清王朝はアヘンの取り締まりのため、広州に林則徐を派遣した。林則徐は、麻薬の取り締まりを行った。イギリス商人から麻薬を没収して焼却処分を行った。現在においてはいたって普通のことである。しかし、イギリス商人はこれに反発。イギリス政府に救済を求めた。

 パーマストン首相は、これに応じて清王朝への開戦を議会に諮った。グラッドストンらトーリ党(保守党)議員は反対した。しかし、わずか9票差で開戦は決議された。かくして、アヘン戦争は開戦した。

 

 

 このころの日本は

 

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七月王政のフランスは

 

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 アヘン戦争とアフガン戦争

 

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