10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。HPを開設しました。https://sekaishiotaku.com/

1960年代のイギリス イギリス病不況とアフリカの年

 1960年代、日本は高度成長期にわいていた。東京オリンピックが開催されたのもこのころである。

 このころ、イギリスは高福祉政策によって、不況に入っていた。1960年代~1970年代のイギリス病不況である。

 

前回の復習 70年代のイギリス

 70年代、イギリス経済はさらに悪化した。一方で、ドルショックやオイルショックによって世界的に経済は停滞していた。これにより、フランスも危機感を感じ、英仏関係は改善された。拡大ECやサミットはその一環であった。
 今回は、イギリスの経済状況と英仏関係を中心に60年代のイギリスを見ていく。

57年 保守党 マクミラン首相

 イギリスは、50年代チャーチルが政権をとって以降、保守党政権が続いていた。

キューバ危機

 60年代のスタートは、人類滅亡の危機でスタートした。アメリカのすぐ近くの社会主義国キューバに核ミサイル危機を建設した。米ソは核戦争の一歩手前まで行った。しかし、アメリカ民主党ケネディ大統領とソ連フルシチョフ書記長が電話会談。核戦争の危機は回避された。なお、民主党ケネディ大統領は、アイルランド移民の子孫でアメリカ初のカトリック教徒の大統領である。民主党はマイノリティの支持が強い。そのため、2000年代の黒人初大統領のオバマ大統領も民主党である。女性初大統領として有力なクリントン氏も民主党である。一方、フルシチョフ書記長は、スターリン批判を行った書記長である。そのため、西側諸国と宥和的であった。
 マクミラン首相時、英米関係はかなり親密であった。これは、80年代のサッチャー首相時代波であった。


アフリカの年

 60年、フランスのド・ゴール大統領はアフリカの植民地6か国の独立を承認した。
 マクミラン首相も、この流れに逆らうことはできなかった。この年、17か国のアフリカが独立を達成した。

ブラックアフリカサハラ砂漠以南のアフリカ)のイギリス植民地の独立

57年、ガーナが独立(世界初の黒人共和国)

60年のアフリカの年に、ソマリアとナイジェリアが独立。この年に南アフリカ共和国の黒人差別(アパルトヘイト)問題化した。マクミラン首相も非難の声明を出している。ローマオリンピックでは、エチオピアアベベがマラソンで優勝した。
 この年、地中海に浮かぶキプロス島も独立した。この地は、18世紀のベルリン会議で得た土地である。キプロス島ではギリシア系住民とトルコ系住民の間でキプロス紛争が起こった。

61年、南アフリカ連邦(34年に独立)はアパルトヘイト問題でイギリス連邦から離脱。この年、イギリスからカメルーンシエラレオネが独立。
中東のクウェートがイギリスが独立したのもこの年である。

62年、ウガンダが独立

63年、ケニアが独立。この年、OAU(アフリカ統一機構)が発足した。
   このころ、コンゴ三月革命がおこる。ここからコンゴ動乱が始まる。

64年、マラウイザンビアが独立。

65年、ローデシアガンビアが独立

66年、ボツワナレソトが独立

68年、スワジランドが独立

 


EFTA イギリスEECに挑む

 EFTAとは、ヨーロッパ自由貿易連合のことで、域内の関税を引き下げて、域外の国から自国を守ろうとした。その考え方は、1930年代の経済恐慌時のブロック経済にある。
 50年代、フランスと西ドイツはEECを結成した。イギリスはこれに参加しなかった。これに対し、59年、イギリスはEECに対抗して、EFTA結成を決定。翌60年EFTAが成立した。これに参加したのは、北欧のノルウェーデンマークスウェーデンデンマークフィンランドは参加していない。)中欧オーストリア、スイス、南欧ポルトガルが参加した。

EFTAの敗北、イギリスEC加盟を申請

 60年代に入り、イギリス経済は低迷した。その打開策として、保守党マクミラン首相は63年EC加盟を申請した。しかし、フランスのド・ゴール大統領はこれを拒否した。

マクミランの経済政策

マクミラン首相も50年代と同じ市場経済と計画経済の混合経済を施行した。

64年 労働党 ウィルソン首相

政権交代

 63年、マクミラン首相は不況と政治スキャンダルで辞任。しかし、保守党の人気を回復することができなかった。翌64年の総選挙で保守党が敗北。労働党が13年ぶりに政権を奪還した。

ウィルソン首相の経済政策

 ウィルソン首相は、アトリー労働内閣の経済政策を引き継いだ。社会保障費を増大するとともに、鉄鋼産業など50年代チャーチル首相が民営化した企業を再度国有化した。

66年、フランスのド・ゴール大統領、NATO軍事機構から脱退

 58年、第五共和制を成立させたド=ゴール大統領は、独自外交をとった。その代表例が反英外交である。63年、イギリスがEC加盟を申請した際に拒否をした。また。66年、NATOの軍事部門から離脱した。

 しかし、68年の学生運動でド=ゴールが退陣。70年代、英仏関係は急速に改善された。
 

66年、イギリスのロックバンド、ビートルズが来日

 イギリスの有名ロックバンド、「ビートルズ」が66年に来日。日本武道館でコンサートを開催した。ちなみに日本武道館は2年前の64年の東京オリンピックの時に建設された。

 前年65年、ビートルズヴィクトリア女王から勲章を受ける。

67年 ポンド切り下げ

  UKは巨額の対外債務を抱えていた。その要因は、植民地の維持のための軍事費と社会保障費の増大である。また、60年代に入るとフランス、西ドイツ、日本などが復興し、イギリス経済は停滞を始めた。それにより税収は低下していた。

 これに対し、UK政府は、増税金利引き上げで財政改善を試みた。しかし、労働者が反発。ストライキが頻発した。IMFから融資を受けるも国際収支は改善できなかった。

 ウィルソンはポンドを切り下げた。一方で、ストライキの規制を行った。ポンド切り下げで景気回復をさせる。しかし、この効果が労働者に浸透するまでには時間がかかった。70年の総選挙では、ストライキの規制強化のほうが問われ、保守党ヒース首相に政権を譲り渡すことになった。
 

68年 スエズ以東から撤兵

 スエズ動乱に敗北したイギリス軍がようやく撤兵を行った。71年には東南アジアのマレーシア、シンガポールからも撤兵した。このころから中東諸国の独立が始まる。

 67年、南イエメンが独立。
 71年、バーレーンカタールUAEアラブ首長国連邦)、オマーンが独立

このころの日本は

 

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 ド・ゴール大統領とは

 

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