10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。HPを開設しました。https://sekaishiotaku.com/

1960年代のトルコ・ギリシャ 親ソ政権とキプロス問題

 1960年代、日本は高度成長期。最初の東京オリンピックが行われていたころである。世界的には、キューバ危機をきっかけに冷静が一時沈静化した。また、60年のアフリカの年をきっかけに多くの独立国が誕生した。

 このころ、トルコとギリシャでは親ソ政権が成立した。この2つの国は、キプロス島の問題で対立していた。

 

 前回の復習 ギリシャ民主化第四次中東戦争

 1970年代、トルコはキプロス問題で軍事費が増大。これにより軍事クーデターが発生した。その少し前、ギリシャも王政が崩壊。ギリシャ共和国が成立した。
 中東では、第四次中東戦争が勃発。石油戦略によってオイルショックが発生した。これにより、西側諸国は経済停滞期に入った。

 さて、今回は2つの政権がもたらしたキプロス問題と、アラブ勢力が石油戦略をとるきっかけになった第三勢力の台頭の過程を見ていきます。

 

キプロス共和国の成立

 キプロス島は、東地中海に浮かぶ小さな島である。この島は1870年代のベルリン条約(露土戦争)でイギリス領になった。エジプトの植民地化における重要な拠点であった。
 50年代の第二次中東戦争スエズ動乱)で、キプロス島でイギリスからの独立運動が活発化した。60年、正式にイギリスから独立を果たした。なお、現在もキプロス島内にはイギリス軍の基地が存在する。60年ははアフリカの年といわれ多くの国が独立した年である。

 キプロス共和国キプロス島)が独立をはたすと、新たな問題に直面した。少数派のトルコ系住民の問題である。
 ギリシャは、トルコ系住民の権利縮小を求めたが、トルコ本国政府はこれを拒否。これにより、ギリシャとトルコとの対立が始まった。トルコは、キプロス島への軍事介入も辞さない構えを見せていた。しかし、アメリカのジョンソン大統領の仲介によりこれは回避された。

トルコとギリシャで親ソ政権が成立

60年代の米ソ関係

 62年のキューバ危機をきっかけに米ソの歩み寄りが見え始めたころである。このころから米ソの軍縮交渉が始まった。部分的核実験禁止条約、核拡散防止条約(NPT)、第1次戦略兵器制限交渉(第1次SLAT)などである。

トルコ、親ソ政権の成立

 60年の軍事クーデターで親米反ソ政権が崩壊した。しかし、NATOや中央条約機構には加入し続けた。それを可能にしたのは米ソ関係が良好だったからといえる。当時のソ連は、スターリン批判を行ったフルシチョフの時代である。その米ソの良好な関係から雪解けの時代と呼ばれた。
 一方で、64年、ソ連がブレジネフ書記長時代に入ると、ソ連とも67年、経済技術援助協定を締結。外交の多角化が進んだ。
 60年代後半、世界各地で学生デモが多発した。トルコ共和国も例外ではなかった。軍事クーデター未遂や労働者や学生デモが頻発し、政情不安が続いた。

ギリシャでも親ソ政権が成立

 ギリシャでも60年代、親ソ左派勢力(民主左翼連合)が力をつけてきた。60年当初、親米右派(国民急進党)のカラマンリス政権の時代であった。50年代後半の総選挙で大敗。少数与党の時代を過ごしていた。
 61年の総選挙では、カラマンリス政権は選挙介入を行い勝利をおさめたが、63年の選挙で再び大敗した。カラマンリス首相は王室との信頼も失い亡命した。
 これにより、中道派のパパンドレウ政権が成立した。

ギリシャ、親ソのパパンドレウ政権の崩壊

 パパンドレウ政権は、緩やかなインフレ政策で経済成長を進めていた。しかし、アメリカの関係は悪化した。親ソ的な社会主義的経済政策を次々進めたことやキプロス問題で対立したことがその要因である。また、1940年代のギリシャ内戦の政治犯を釈放させたことも問題になった。
 そのため、65年パパンドレウ首相は辞任した。国王派政権が再び成立した。これにギリシャ国民は激怒した。ギリシャ各地でデモが頻発した。

ギリシャ軍事クーデター

 政党間の争いにギリシャ国民は疲弊していた。そこで、軍部は軍事クーデターを実施。軍事独裁政権が成立した。

OPECの結成

 60年はアフリカの年である。60年代多くの国が独立した。その中には産油国も多く含まれていた。アフリカの年の60年9月、イラク、イランなどの産油国OPECを結成した。OPECとは、先進国(石油輸入国)に対抗するための原油価格の国際カルテル組織である。それまで、先進国の石油メージャーに安く買いたたかれていた石油価格を高く売ることができるようになった。アラブの石油王が誕生したのこのOPECの成立後の言葉である。  

第三次中東戦争の敗戦でナセル大統領が失脚

ナセル大統領(エジプト) VS イスラエル

 イスラエルは、第2次中東戦争スエズ動乱)で圧倒的な軍事力でエジプトへ侵攻した。しかし、国際世論の反発もあり、撤兵を余儀なくされてた。イスラエルはその復讐の機会を狙っていた。

  第2次中東戦争に勝利したエジプトのナセル大統領は、58年シリアは合同してアラブ連合共和国を結成した。しかし、シリアで反ナセルの動きがあり、61年シリアは再びエジプトから独立した。

イスラエルのエジプトへの奇襲

 67年6月、イスラエルはエジプトへ奇襲した。6日後、エジプトとイスラエル国際連合の停戦決議を受諾し停戦した。この短期決戦から6日間戦争と呼ばれることもある。これによりイスラエルアラブ諸国から多くの領土を獲得した。このことが70年代の第四次中東戦争につながる。
 この敗戦により、エジプトのナセル大統領の信用は失墜。まもなくナセル大統領は亡くなった。

OAPECの結成で、オイルショック

 第三次中東戦争で苦汁をなめたアラブ諸国第四次中東戦争に向けて着々と準備を開始した。これが、OAPEC(アラブ石油輸出国機構)の結成である。これは70年代の第四次中東戦争オイルショックを引き起こす。

この頃の日本は

 

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 このころのソ連

 

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