10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。

1880年代のイギリス グラッドストン自由党とアフリカ分割

  1880年代、日本は明治時代。国会が開設されたころである。このころ、日本ではノルマントン号事件が発生。イギリスと領事裁判権をめぐる交渉がこのころから始まった。

 この時期、帝国主義の舞台はアフリカに移った。その象徴がアフリカ=コンゴ会議である。イギリスは、自由党と保守党の2大政党制が続いていた。しかし、アイルランド問題で自由党が分裂。これを機に自由党は徐々に衰退に向かっていく。

 

 

第二次グラッドストン内閣

 保護貿易政策で保守党が分裂しているときに、総選挙が実施。自由党が勝利した。これにより保守党ディズレーリー首相は退陣。自由党グラッドストン内閣が成立した。グラッドストンの強気の政治運営はできなかった。反主流派が強かったからである。その中心がチェンバレン氏であった。

自由党と保守党

 自由党は、支持基盤は産業資本家である。都市の人々世界中に工業製品を輸出した井ので自由貿易を主としていた。そのため外交面では平和外交を進めた。アイルランド問題では独立を認める方向で進めていた。
 一方、保守党は支持基盤は貴族や地主である。農家が多いので安いヨーロッパの農産物が入るのは嫌った。そのため、保護貿易政策をとった。そのため、外交面では強硬外交を進めた。アイルランドの地主が多いのでアイルランド自治には反対した。

第3次選挙法改正

 自由党は、地主の政治力を弱めたかった。そのため、小作農などの農業の労働者や鉱山労働者に参政権を与えた。

エジプトとアフリカ

フランスからエジプトを奪う

 エジプトでは、まだトルコ人が優遇され、アラビア人は冷遇されていた。そのため、アラビア系将校がクーデターを起こした。イギリスフランス両軍は邦人保護のためエジプトへ艦隊を派遣した。エジプトの暴動がイギリスに伝わるとイギリス世論は開戦に向かっていた。しかし、フランスをはじめとするヨーロッパ諸国はエジプト出兵に消極的であった。そのため、イギリスはエジプトへ単独出兵する形になった。これにより、エジプトは英仏共同統治からイギリスの単独統治となった。

エジプトの南、スーダン出兵

 エジプト反乱を鎮圧後、エジプトの南スーダンでも反乱が発生した。グラッドストン首相は、イギリス軍に撤兵を命じた。しかし、現地で指揮していたゴードン将軍はこれを無視、スーダンへ出兵した。イギリス世論はゴードン将軍の弔い合戦をもとめた。グラッドストン首相もこれに応じスーダンへ派兵した。

南アフリカではブーア戦争に敗北

 南アフリカ内陸部でブーア人(オランダ系移民)が反乱。イギリス軍はこれに敗北。ブーア人に自治権を与えた。

ベルリン会議

 84年、ベルギーのコンゴ支配をするかの議論になった。これについて、ヨーロッパで協議することになった。しかしその背景は、イギリスのエジプト支配に対するフランスの反発である。この仲介を図るための会議である。仲介役を務めたのがドイツのビスマルクである。
 これにより、ベルギーのコンゴ支配は認められた。また、アフリカの植民地化のルールも決定された。この会議をもとにアフリカ分割は瞬く間に進んだ。
 その主役は、イギリスの縦断政策とフランスのアフリカ横断政策である。

アフリカ分割

 イギリスは、エジプト、スーダン南アフリカをすでに植民地としていた。そのため、エジプトとアフリカを結ぶアフリカ縦断政策を進めた。
 アフリカ東部のケニア、ナイジェリア、ガーナなどを進めた。
 一方フランスは、対岸のアルジェリアに拠点を求めた。そのため、アルジェリアからサハラ砂漠を通じてインド洋に向かうアフリカ横断政策を進めた。アルジェリア付近のチュニジア、モロッコ、サハラ(西アフリカ)、ギニアと東アフリカのマダガスカル島に拠点を置いた。
 これ以外に、ドイツはカメルーンなど、イタリアは、リビアソマリランドを植民地化した。


太平洋、ニューギニア分割

 オーストリアの北にニューギニア島が存在する。この島の分割が決定された。西半分は、オランダ、東半分は、北がドイツ、南がイギリスである。この島は現在でも分割されており、東半分はインドネシアに、西半分はパプアニューギニアとなった。

インド、アフガニスタン保護国

 第二次アフガン戦争に勝利。アフガンを保護国化した。ただし、グラッドストン首相は反戦主義者であった。そのため、第二次アフガン戦争を行ったリットン氏(満州事変のリットン報告書のリットン氏の父)を更迭した。


アイルランド問題で自由党が分裂

 70年に成立したアイルランド土地法は、イギリス地主に有利過ぎた。そのため、81年にアイルランド土地法を改正した。これによりアイルランドの自作農は増えた。しかし、アイルランド自治権を求める運動は続いた。
 第三次選挙法改正で、小作農の参政権が大幅に増加した。とくに、小作農の多いライルランド人が多数選挙権を獲得した。このため、アイルランド国民党が大きく議席を伸ばした。
 グラッドストンは、アイルランド人を味方につけるため、アイルランド自治法案を提出した。しかし、自由党ジョセフ=チェンバレンらは反発。ジョセフ=チェンバレンは離党。86年総選挙に敗れ退陣した。この分裂により自由党は衰退。

 

労働党の前身、フェピアン協会が発足

 このころ労働党の基盤となるフェビアン協会が結成された。

 

86年 ソールズベリー保守党首相

 アイルランド自治法の否決で、グラッドストン内閣は退陣した。ソールズベリー保守党は、ジョセフ=チェンバレン自由統一党(アイルランド問題で自由党を離脱し他グループ)である。

ビスマルクとの連携とイタリア

 ソールズベリー首相は、グラッドストンが作った孤立外交から脱却しようとした。そのパートナーに選んだのがビスマルクドイツ帝国であった。
 このころ、ビスマルクは危機的な状況を迎えていた。バルカン問題でオーストリアとロシアが対立。三帝同盟が崩壊していた。ビスマルクは、ロシアと再保障条約を締結した。一方でオーストリアとは、イタリアとともに三国同盟を締結した。
 87年2月、ビスマルクを通じて、イギリスはイタリアと地中海協定を締結した。イタリアが三国同盟や地中海協定に参加したのはアフリカ問題であった。このころ、フランスとイタリアはチュニジアをめぐって対立していた。そのため、反フランスの強直相手を求めていたのである。

インド ミャンマー領有

 インドでは、第三次インド=ビルマ戦争が勃発。コンバウン朝ミャンマーを滅亡。ミャンマーを併合した。

 

86年、南アフリカの内陸部で金鉱山が発見された。

 90年代に入ると、イギリス軍は再びアフリカ内陸部に侵攻した。

86年 日本でノルマントン号事件

 このころ、日本は大日本帝国憲法を制定。国会も成立した。そのころ、ノルマントン号事件が発生した。ノルマントン号はイギリス船籍の商業船である。このノルマントン号が沈没。イギリス人船長は、日本人乗客を救助しなかった。このことで裁判になったのだが、領事裁判権があったためイギリス人が裁いた。イギリス領事はこれを無罪とした。そのため、日本の世論は激怒し、領事裁判権の撤廃が最重要外交課題になった。
 94年、イギリスは領事裁判権の撤廃を認める。

90年 経済恐慌

 ドイツ、アメリカの安い工業製品の流入により、イギリスで恐慌が起きた。これにより、保守党は支持を失い92年の総選挙でグラッドストン自由党に敗北退陣した。

 

この頃の日本は

 

sekaishiotaku.hatenablog.com