10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。HPを開設しました。https://sekaishiotaku.com/

1820年代のインド 産業革命で不況になるインド

 1820年代、日本は江戸時代。徳川家斉の好景気沸いていた。

 ヨーロッパも、ナポレオン戦争終結し、つかの間の平和を享受していた。

 そのころ、インドは不況に苦しんでいた。産業革命を果たしたイギリス産綿製品がインドの綿業界を壊滅させた。

 

 

前回の復習 1830年代のインド

 インドは、イギリス製綿製品の流入で生活は困窮していた。このため、中国向けのアヘンの栽培が盛んになった。

1820年代のヨーロッパ 南米諸国の独立

 ナポレオン戦争終結してヨーロッパに平和が訪れていた。このころ、旧スペインの植民である南米諸国が次々独立した。これを支援したのがイギリスとアメリカである。また、バルカン半島(東欧)のギリシアオスマン帝国に対して独立戦争を行った。イギリス、フランス、ロシアはギリシアを支援した。

1820年代のイギリス 産業革命

 1820年代のイギリスは、産業革命により大きな変革期に入った。その中心は綿織物産業である。20年代の発明は、交通機関に起こった。蒸気機関車と蒸気船である。これにより、インドとイギリスの移動時間が大幅に短縮された。また、大砲を積んだ船が作れるようになり、イギリス海軍が世界の植民地に名を轟かせるようになる。

 また、このころアイルランド人差別が問題になった。審査法廃止やカトリック教徒解放令によって、アイルランド人の参政権が認められるようになった。

 21年、ギリシャ独立戦争が始まる。当初、イギリスは義勇軍を派遣していた。しかし、ロシアが地中海進出のためにギリシャを支援するようになると、イギリス・フランスが参戦。30年のロンドン会議でギリシアの独立が承認された。この時に登場したのが蒸気船である。

イギリスの産業革命で純輸入国へ

 10年代末、インドは輸出国から輸入国へ転落した。それまで、インドは綿布にして、イギリスへ輸出していた。しかし、イギリスの産業革命によって、イギリスの加工コストが大幅に下落。インドは綿花を輸出して、イギリス製綿布を輸入する国なった。ただ、当時の綿花の主要産地はアメリカ南部であった。そのため、綿花は安く買いたたかれた。

農産物価格の高騰が農民の生活を苦しめる。

 輸入国になることで、インドの銀がイギリスへ流れた。当時、銀は国際通貨の役割を果たしていた。これにより、インドは銀価格が高騰した。現代風に言うとデフレである。これにより農産物価格が下落した。
 インドの農民は銀で納税を行っていた。そのため、農産物価格の下落により税負担がさらに増した。

インドの2つの主要輸出品、アヘンと綿花

 貧困したインドは2つの農産物を作るようになった。1つは、イギリス向けの綿花である。もう一つは中国向けのアヘン(麻薬)である。

東南アジア情勢 第一次ビルマ戦争と海峡植民地

第1次ビルマ戦争

 このころ、コンバウン朝ミャンマーがインドの北東部ベンガル州(現在のバングラデシュ)へ侵攻してきた。当時、ベンガル州は東インド会社の本拠地である。東インド会社はこれに対し徹底抗戦。コンバウン朝ミャンマーを撃退した。ここから、インドVSミャンマーの戦いが始まる。

コンバウン朝ミャンマー

 ミャンマーは東南アジア半島部の西側に当たる国。

 コンバウン朝は18世紀半ばに成立し、タイのアユタヤ朝を滅ぼした。1852年、第3次ビルマ戦争で東インド会社に敗北し滅亡した。

ベンガル

 インドの北東部、ガンジス川流域。18世紀の半ばのプラッシーの戦い以降東インド会社の拠点となる。

マレーシアの前身、海峡植民地

 東インド会社は、マラッカ海峡を植民地化した。マラッカ海峡は、マレー半島スマトラ島の間のことである。インド洋と南シナ海(太平洋)をむすぶ重要な交通拠点である。

このころ、日本は

 

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 このころ、ヨーロッパは

 

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 アヘンの輸出先、清王朝

 

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