1810年代、日本は江戸時代後期。徳川家斉の好景気の時代である。葛飾北斎などの浮世絵が描かれたのもこの時代である。
そのころ、世界ではナポレオン戦争が終結。ウィーン会議によって戦後秩序が作られた。
前回の復習 1820年代のインド
1820年代のインドは不況に苦しんでいた。その原因は安価なイギリス製綿製品である。農民は生活のため、清王朝(中国)向けアヘンの生産を行うようになった。
ヨーロッパ ナポレオン戦争が終結し、ウィーン体制へ
15年、フランスのナポレオン皇帝を拿捕。ヨーロッパ各国がウィーンに集まり戦後秩序について会議が行われた。これにより成立したのが、四国同盟と神聖同盟である。
イギリス 米英戦争(第二次アメリカ独立戦争)と産業革命
1810年、イギリスはナポレオン戦争の真っただ中にあった。そのような中、アメリカがイギリスに宣戦布告。米英戦争が始まった。14年、イギリスがナポレオン戦争に勝利すると、米英戦争も終結した。
ウィーン会議では、オランダからケープ植民地(南アフリカ)、スリランカ、東地中海のマルタ島を得た。
また、産業革命も進展してきた。石炭採掘技術が向上し、石炭を利用した蒸気機関を使った工業が発展した。また、蒸気船や蒸気機関車が発明されたのもこのころである。一方で、産業革命の負の部分も出てきた。産業革命により従来の手工業者は失業した。彼らによる機械打ちこわし運動がおこった。
東インド会社
インドでの貿易独占権を失う。
主要なビジネスは、赤字続きの中国との交易とインドでの徴税収入になる。
植民地拡大戦争
東インド会社は、インドでの徴税収入拡大のため、植民地を拡大していく
ネパール戦争
東インド会社は、インドの北にあるネパールに勝利。ネパールを保護国とした。その後、1850年代のインド大反乱では東インド会社側にたち、活躍。第二次世界大戦後の1951年に独立する。
オランダからスリランカを受け入れる(ウィーン会議)
ナポレオン戦争の戦勝国の間で講和会議が行われた。ウィーン会議である。
この会議で、イギリスは、オランダからアジア各地の植民地を譲り受ける。その一つが、インド南東部のスリランカである。
コンバウン朝ビルマ(ミャンマー)にアッサムを奪われる。
コンバウン朝ビルマは、インド北東部のアッサム地方へ侵攻した。ここは東インド会社の本拠地ベンガル州に含まれる。これをきっかけに第一次ビルマ戦争が勃発する。
第3次マラーター戦争
東インド会社は、マラーター同盟に勝利し、植民地がインド内陸部(デカン高原)まで広まった。
マラーター同盟とは、インド中央部(デカン高原)を中心に活動するヒンドゥー教国の同盟。18世紀初頭、アウラングゼーブ帝が亡くなると、強力になる。ムガル帝国を脅かす存在となった。
シンガポール領有
東インド会社は、マレー半島を治めるジョンホール王国からシンガポールに商館を持つことを許される。これが20年代の海峡植民地につながる。
このころの日本は