10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。HPを開設しました。https://sekaishiotaku.com/

1920年代のイギリス 世界の中心はロンドンからニューヨークへ

 1920年代、いわゆる戦間期戦間期は、世界恐慌前の20年代世界恐慌後の30年代に分けられる。このころ、日本は関東大震災などの影響で長期の不況に入っていた。

 このころ、イギリスは第一次世界大戦に勝利をしたものの大きな損害を受けた。その中で台頭してきた国が2つある。アメリカと日本である。アメリカではこの10年間を繁栄の20年代といった。1920年代の歴史はアメリカ、イギリス、日本の3か国の駆け引きが国際時を動かしていく。

 

 前回の復習 1930年代のイギリス

 30年代、最大の影響を与えたのは、29年におきた世界恐慌である。今回の最後でこの世界恐慌に触れる予定です。そして、ヨーロッパに大きな影響を与えたのはヒトラー総統である。今回は、ヒトラー総統が登場する原因となったドイツの賠償金問題に触れていきます。30年はマクドナルド労働党政権が誕生します。このような左派政権の台頭の歴史を見ていきます。

第一次世界大戦後の世界

ロイド=ジョージ挙国一致内閣

 第一次世界大戦は、ロード=ジョージ挙国一致内閣(自由党、保守党、労働党の連立政権)の時代であった。ロイド=ジョージ首相自身は自由党の出身の政治家である。ドイツのビスマルクを見習って、社会保障の充実に努めた。

自由党とは

 昔はホイッグ党と呼ばれていた政党。1830年代から自由党と呼ばれるようになった。かつては、保守党と並ぶ二大政党の一つであった。主な支持者は、都市部の産業資本家(中小企業の商工業者)である。

 しかし、1880年代のアイルランド自治権問題で分裂。2大政党の地位を労働党に明け渡し、ロイド=ジョージ首相以降、首相を出していない。現在は自由民主党に名前を変え活動をしている。

ヴェルサイユ条約

 19年6月、第一次世界大戦講和条約が締結された。ドイツは、海外植民地を完全に失い、ドイツに多額の賠償金が請求された。

 この賠償金の額は到底ドイツ政府に払える能力はなかった。しかし、フランスはこの賠償金を獲得しないとフランスの復興どころか債務不履行になる可能性もあった。これが20年代の外交を見るうえで重要なドイツ賠償問題である。

 ちなみに、調印日の6月28日はサラエボ事件の日であり、調印が行われたのヴェルサイユ宮殿の鏡の間である。1870年代の普仏戦争講和条約が行われた。

国際連盟

 国際連盟は、アメリカのウィルソン大統領の提唱で設立された国際組織である。国際連合の前身である国際秩序を作るための組織である。19世紀、この役割を担ったのは、ウィーン会議の四国同盟(のちの五国同盟)と神聖同盟である。

常任理事国

 現在の国際連合常任理事国は、アメリカ、ソ連、イギリス、フランス、中華人民共和国の五か国である。一方、国際連盟常任理事国は、イギリス、フランス、イタリア、日本の戦勝国4か国である。ちなみに、18世紀の五国同盟のメンバーは、イギリス、ロシア、オーストリアプロイセン、フランスである。

アメリカ、ソ連の不参加

 アメリカは、モンロー主義の影響でヨーロッパの政治には参加しないとの世論が形成されていた。そのため、ヴェルサイユ条約を批准できなかった。そのため、国際連盟には参加していない。また、ソ連ロシア革命の直後でまだ多くの国が国家承認していない。そのため、この当時国際舞台に登場することはなかった。当然、五国同盟のメンバーであるドイツとオーストリアは敗戦国なので常任理事国から外された。その代わりにメンバーに選ばれたのが、戦勝国側についた日本とイタリアである。

ワシントン会議

 ワシントン会議は、国際連盟に参加できなかったアメリカ(ハーディング大統領)の提唱で行われた。当時、アメリカは世界最大の債権国のため他の国は従わざるを得なかった。テーマは海軍の軍縮と中国問題であった。

 この会議の裏テーマは、アメリカが持つ莫大な債権で、イギリスを誘導し、日本とイギリスがもつ中国利権の獲得であった。

海軍軍備制限条約

 当時の軍艦は冷戦時の核兵器に相当するものと考えられる。一方で、軍艦は国家財政をかなり圧迫した。そのため、軍縮条約を締結した。特に、1910年代の英独建艦競争は莫大な国家予算が使われた。

 この条約では、アメリカ:イギリス:日本が10:10:6とされた。

 当時、最大の海軍を誇っていたのがイギリスである。そのため、イギリスはアメリカにかなり譲歩したことになる。

4か国条約(太平洋問題と日英同盟の破棄)

 太平洋の植民地は、現状維持とすることを定めた条約。当時、太平洋に領土を持つ、アメリカ、日本、イギリス、フランスの間で結ばれていた。

 イギリスが当時太平洋に領土を持っていたのは、オーストラリアを中心に太平洋南東部のメラネシアポリネシアを領有した。また、ヴェルサイユ条約で赤道以南のミクロネシアを獲得した。

 ヴェルサイユ条約で、旧ドイツ領のミクロネシアは赤道を境に北が日本、南がイギリス(オーストラリア)の統治とされていた。四か国条約でもこれが踏襲された。これにより、アメリカ領のハワイとフィリピンの間に日本領のミクロネシア南洋諸島)を挟むことになる。太平洋戦争はこの南洋諸島アメリカが獲得していく戦争となっていく。また、フィリピンの統治が難しくなったことで、アメリカはフィリピンの自治を大幅に拡大していくようになる。

 また、この条約で、日英同盟(1900年代)は破棄させられた。

9か国条約(中国問題)

 日露戦争第一次世界大戦の結果、中国北部からロシアとドイツが撤退。日本が権益を確保した。一方で、中国南部は、アロー戦争以降、長江流域を中心にイギリスの勢力下にあった。

 アメリカは1890年代の中国分割に出遅れた結果、中国に拠点を置くことができなかった。そのため、中国進出を伺うチャンスを狙っていた。すでにイギリスは中国市場を守る余裕はなかった。そのため、いかに国際世論を使って日本を説得するかがポイントであった。

 9か国条約では、中華民国袁世凱の主張をみとめ、中華民国袁世凱政権)の主権尊重と領土保全、中国市場の門戸開放と機会均等が締結された。具体的には、第1次世界大戦中に締結された日本と中華民国袁世凱政権)で締結された「対華二十一か条の要求」の破棄である。これにより、日本は、旧ドイツ領の山東省の権益を中華民国に返還した。

 この条約に参加したのは、四か国条約に参加したアメリカ、イギリス、日本、フランスに加え、当事者の中華民国袁世凱政権)、マカオに拠点を持つポルトガル、そしてオランダとベルギーの九か国である。

第一次世界大戦に協力した植民地に自治権

 イギリス政府は、植民地に対し戦争に協力する代わりに自治権の拡大を約束した。20年代これが実施されていく。

インド統治法

 19年、インド統治法が改正され、インドの自治権が拡大した。具体的には、地方政治については完全にインドの自治を認めた。外交・軍事など中央政府は引き続き、イギリス人が行うこととなった。また、同19年にローラット法を制定し、過激な独立運動の取り締まりを行った。

 これにたいし、インドは反発。第一次非暴力・不服従運動(独立運動)につながった。

エジプト独立

 22年、イギリス本国政府は、ムハンマド=アリー朝エジプトの独立を認めた。しかし、国防などは引き続きイギリスがになっとので、イギリスの保護国という立場になった。

 このあと、エジプトは、イギリスに追随する宮廷派と真の独立をもとめるワフド党の対立が始まる。

アイルランド自由国

 アイルランドは、14年にアイルランド自治法が成立。しかし、第一次世界大戦で施行が延期された。16年、アイルランドイースター蜂起がおこる。第一次世界大戦終結した19年、アイルランドは独立宣言を発表した。これをきっかけにアイルランドド栗生津戦争(英・アイ戦争)が勃発する。21年12月、和平条約を締結。翌22年アイルランド自由国が成立した。

保守党政権時代

 22年、ボナーロー保守党政権が誕生。23年ボールドウィンが引き継いだ。ここからイギリス政治はボールドウィン保守党VSマクドナルド労働党の対決の構図になる。

フランスのボワンカレ首相によるルール占領(ドイツ賠償金問題)

 このころ、フランスでは、極右のボワンカレ首相が誕生した。23年1月、ドイツの賠償金の支払いが滞るとフランスは、ベルギーとともにドイツのルール炭田を占領した。

マクドナルド労働党

イギリスの初労働党政権

 23年総選挙で、労働党はついに第2党の座まで上り詰めた。24年、初の労働党政権、マクドナルド政権が成立した。この政権は自由党との連立内閣であった。しかし、その年の総選挙で敗北。短命に終わった。

背景)1918年の女性参政権と男子普通選挙

 第一次世界大戦期の1918年、国民に戦争協力を求める代わりに選挙権を拡大した。これにより21歳以上男性は無条件で選挙権を持つようになり、一部の女性にも選挙権を与えられた。この選挙法改正により、投票できる人は大幅に増えた。その大部分が都市労働者であった。

 これが労働党躍進につながる。

ソ連の承認

 このころ、フランスでも、極右のボワンカレ政権が倒れ、社会党を中心とした政権が成立した。24年、イギリス、フランスはソ連を承認した。翌年には日本もソ連を承認した。

 しかし、アメリカはソ連を認めなかった。アメリカがソ連を承認したのは、世界恐慌後33年のことである。アメリカの承認によってようやく国際連盟に加入することができた。

ボードウィル保守党政権

ドイツ賠償問題)国際協調路線とドーズ案

 フランスとイギリスの政権交代は、ドイツ賠償問題にも影響した。24年、アメリカはドイツ賠償問題でドーズ案を提示。ヨーロッパ各国はこれに同意した。これにより、フランスはルールから撤兵した。25年ロカルノ条約を締結。これにより、ドイツは26年国際連盟に加盟した。

経済)金本位制の復活<金融引き締め>でロンドンの復活を

 ボードウィル首相は、金本位制を導入した。金本位制は、政府もしくは国立銀行(日本でいえば日本銀行)が通貨と金の交換を約束する仕組みである。金本位制を導入すると通貨量は、通貨発行機関が保有する金の保有量に限定される。しかし、金本位制を導入することは強い国の象徴であった。

 イギリスは、19世紀の半ばに金本位制の導入を決定した。これにより、ロンドンには多くの金融機関が集まった。しかし、1910年代の第一次世界大戦期に戦争の費用を捻出するため、金本位制を停止した。一方、アメリカは第一次世界大戦の開始前伊の1913年に金本位制を導入にした。これにより、金融の中心はロンドンからニューヨークに変った。

 この金本位制は長くは続かなかった。30年の世界恐慌でイギリスは金本位制を再び停止。以後、金本位制に復活することはできなかった。一方、日本はこの1930年に金本位制を一時導入した。

米英日、ジュネーブ海軍軍縮会議決裂

 27年、22年のワシントン会議をうけてジュネーブで開催された海軍軍縮会議。

 ワシントン会議では小規模な軍艦(補助艦)は対象とならなかった。そのため、小規模な軍艦も含めた海軍軍縮条約を締結しようとした。小規模軍艦を多数保有するイギリスと小規模軍艦をそれほど持っていないアメリカが対立。この会議は決裂した。

男女完全普通選挙

 ボードウィル首相は、28年選挙法改正を実施した。(28年選挙法改正)。この選挙法改正に21歳以上のイギリス国民は全員選挙権を持つかとができた。

第2次マクドナルド労働党政権

 29年の総選挙で、労働党過半数をとった。これによりマクドナルドが再び首相に返り咲いた。今回は、労働党の単独政権となった。この要因は前年28年の選挙法改正がある。

ドイツ賠償問題)ヤング案

 29年、アメリカの提案により、ドイツの賠償金について金額の軽減と支払機関の延長がなされた。

世界恐慌

 しかし、ヤング案が成立直後、世界の中心となったニューヨークで事件が起きた。ニューヨークの株式市場で株価が大暴落。各地で取り付け騒ぎが起きた。これにより企業が大量に倒産。街に失業者があふれた。

 この恐慌は、アメリカだけにとどまらなかった。ヨーロッパや日本にも波及した。

ロンドン軍縮会議

 30年、27年に決裂したジュネーブ海軍軍縮会議の再協議はロンドンで行われた。世界恐慌により、イギリスもアメリカも海軍に予算を回す余裕がなくなっていた。そのため、是が非でもこの会議を決裂させることできなかった。しかし、日本は世論が対米7割を主張した。そのため、イギリスとアメリカは譲歩。日本は対米7割で決着がついた。

この頃の日本は

 

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 フランスは

 

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 ソ連

 

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