10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。HPを開設しました。https://sekaishiotaku.com/

15世紀のインド デリー=スルタン朝、ティムールと永楽帝とポルトガル

 15世紀、日本は室町時代金閣寺が建立されたころである。

 このころ、インドはデリー=スルタン朝の時代である。15世紀に入ると効果技術が大幅に発展した。多くのスーパースターがインドを訪れた。15世紀初頭には、ティムールや明王朝(中国)の永楽帝の使者がインドに来訪。15世紀末には、大航海時代が始まり、パスコ=ダ=ガマがインドに到着した。

 

 前回の復習 16世紀のインド

 16世紀、インドはムガル帝国が建国された。一方で、ポルトガルムスリム商人を排除してインドに拠点を置いた。

 今回は、ムガル帝国建国前のインドの様子と、大航海時代前のアジアの交易の状況を見ていきます。

北インドのデリー=スルタン朝

デリー=スルタン朝とは

 13世紀から15世紀にかけてのイスラム教の北インドの歴代王朝。この王朝はいずれもデリーを都とした。スルタンは、イスラム世界で王を表す言葉である。そのため、この時代をデリー=スルタン朝という。

トゥグルク朝  ティムールの侵入で滅亡

 トゥグルク朝とは、14世紀初頭に成立した北インドイスラム王朝である。国王はトルコ系であった。建国当初は全インドを支配していたが、南インドで多くの国が独立。13世紀末には北インドの王朝になっていた。

 そのような中、インドの北西のアフガンから新たな敵が登場した。ティムールである。当時、ティムールは、旧チャガタイハン国と旧イルハン国を支配していた。これは中央アジアから中東までに達した。

 98年、ティムールはインドへ侵攻し、デリーを占拠した。しかし、14世紀に入るとティムールは病死。ティムールのインドへの侵攻は止まった。しかし、このティムールの侵攻でトゥグルク朝は急速に衰退した。

サイイド朝 ~ティムール朝の支援を受ける~

 14年、トルコ系のイスラム教国、サイイド朝が成立した。サイイド朝の国王は、トゥグルク朝のもと武将であった。サイイド朝は中東のティムール朝の保護を受けていた。

ロディ朝 ~アフガン人の台頭~

 51年、インド北西部のパンジャーブ地方でアフガン人の連合政権ロディ朝を建国。デリーに入城した。

南インド カリカットに東西から使者が

東の明王朝の使者、鄭和

 13世紀末、中国の明王朝で、クーデター(靖難の役)が発生。永楽帝が登場する。14世紀に入るとティムールが明王朝へ侵攻を計画。しかし、ティムール帝の死によってこの計画は亡くなった。

 05年、永楽帝鄭和を団長とした大船団を編成。鄭和に大航海を命じた。鄭和イスラム教徒であり、当時イスラム商人が東南アジアまで進出していた。彼らを通じでインド洋の航海を行った。その時に拠点にしたのがインドのカリカットである。鄭和自身もカリカットで亡くなったといわれている。

 30年、永楽帝がなくなると明王朝の大航海事業は亡くなった。そのためインドと中国の海上での交流は途絶えた。

ヒンドゥー教のヴィジャヤナガル王国

 このころ、南インドは分裂した。南インドの主要な国は2つあった。ヒンドゥー教のヴィジャヤナガル王国とイスラム教のバフマニー王国である。一方では交易拠点であるカリカットは交易で莫大の富を得ていた。そのため、港湾国家として独立を維持した。

 ヴィジャヤナガル王国は、中東から騎馬を輸入して武装力を上げていた。この頃、みな南インドでは象に乗って戦っていたので、ヴィジャヤナガル王国の騎馬軍団は近隣国に恐れられていた。

アラビア海を支配したマムルーク朝

 アラビア海は、インド洋の一部でインド半島アラビア半島の間にある海である。8世紀以降ムスリム商人の船がここで交易を行っていた。

 このころ、アラビア海を支配していたのはマムルーク朝エジプトであった。そのためアジア各国の品々がカイロに集まった。これらがイタリア商人(ジェノヴァ商人やヴェネツィア商人)を通じでヨーロッパに流れた。そのため、マムルーク朝には莫大な富が集まった。

大航海時代の始まり、パスコ=ダ=ガマ

 ポルトガルの大航海事業は、鄭和の大航海が始まった。15世紀初頭から始まった。このころ、アフリカ大陸の最南端は発見せれていなかった。そのため、アフリカの南に進んでもインドへ行ける保証はなかった。

 88年、アフリカ最南端の喜望峰を発見。ついにインドへの航路を確保した。当時の

 このころ、ジェノヴァ商人のコロンブスポルトガル王室を訪れた。大西洋横断によるアジア航路の探検を申し出た。しかし、ポルトガルは、すでにインド航路を確保できたのでこれを支援しなかった。そのため、コロンブスは、ポルトガルのライバルであるスペインの支援で92年新大陸(アメリカ)を発見した。

 コロンブスの新大陸の発見を受けて、2年後の94年、トルデシリャス条約を締結。東回り航路(アフリカ)はポルトガル。西回り航路(新大陸)はスペインに独占権を与えた。そのため、スペインがインドへ進出することはなかった。

 そして、98年、インド最大の港カリカットポルトガルの探検隊パスコ=ダ=ガマが到達した。

 

この頃の日本は

 

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インドへ侵攻したティムール朝

 

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 鄭和を派遣した明王朝

 

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