10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。HPを開設しました。https://sekaishiotaku.com/

1910年代のイギリス VSドイツ 第一次世界大戦

 1910年代、日本は大正時代。世界は第一次世界大戦の真っただ中にあった。

  前半では、イギリスとドイツの植民地政策の比較を見ていく。後半では、第一次世界大戦の影響として、イギリスの三枚舌外交と普通選挙制への流れを見ていく。

 

 前回の復習 20年代のイギリス

 20年代、世界のリーダーの地位をアメリカに奪われていく。外交では、2つの大きなテーマがあった。米英日の海軍軍縮交渉とドイツの戦後賠償金問題である。内政では、普通選挙制が導入され、労働党が台頭していく。

イギリスを中心とした三国協商 VS ドイツを中心とした三国同盟

イギリスの3C政策

 イギリスは18世紀から19世紀にかけて3つの重要拠点を得た。インドのカルカッタ(18世紀半ばの七年戦争でフランスから獲得)、南アフリカケープタウン(19世紀初頭、ナポレオン戦争時にオランダから獲得)、エジプトのカイロ(19世紀半ば。普仏戦争に敗れたフランスから獲得。)。そのため、イギリスはこの3拠点を結ぶように植民地政策を進めた。インドとエジプト間では、カジャール朝ペルシャに介入するようになる。一方で、エジプトと南アフリカではアフリカ政策縦断を進めた。おもにアフリカ大陸東部内陸部の植民地化を進めた。

ドイツの3B政策

 一方、イギリスの敵、ドイツは3B政策を進めていた。3B政策は3C政策と異なり、ほぼ一直線となり、ドイツのベルリンとオスマン帝国ビザンティウムイスタンブル)、バグダードを結んだ鉄道を建設する政策である。この鉄道が完成するとドイツはこの鉄道をつうじて中東やインド洋に物が運べるようになる。

 この鉄道は、2つの国に警戒感を与えた。ロシアとイギリスである。当時のロシアの重要政策は地中海に港(不凍港)を持つことであった。そのため、バルカン半島イスタンブルにあるボスフォラス海峡にドイツは警戒した。一方、イギリスの3C政策にも影響を与えた。これには2つの理由がある。1つ目はオスマン帝国が、インドとエジプトの中間にあることである。イギリスはすでに、カジャール朝ペルシャを大きな影響力を思っていた。そのため、オスマン帝国南部に影響力が持てれば、インドとエジプトを陸路で結べることになる。もう一つは、ドイツがインド洋に軍港を持つことである。インドとオスマン帝国が同盟を結べばドイツ製軍艦がインド洋に派遣される。この軍艦がインドに向かう可能性は否定できない。

第一次世界大戦の前哨戦 バルカン戦争

 バルカン半島では、オスマン帝国の衰退によって多くのスラブ人国家が成立していた。地中化進出を狙うロシアはこれらの国を支援した。一方でそれを警戒していたのがオーストリアであった。オーストリアオスマン帝国同様、バルカン半島の異民族を支配していた。

 12年、第一次世界大戦の前哨戦であるバルカン戦争が勃発した。第一次バルカン戦争ではオスマン帝国とバルカン諸国が戦い、第二次バルカン戦争では戦勝国のバルカン諸国間で領土分割戦争が行われた。イギリスとドイツはこれらの戦争に巻き込ないように必死に交渉を繰り返した。そのため、これらの戦争は第一次世界大戦まで拡大することはなかった。

 また、このバルカン戦争でバルカン半島でのグルーピングが構成された。バルカン諸国はロシアと同じイギリス側についた。一方で、この戦争により、ドイツ、オーストリアオスマン帝国の絆は強固になった。それとともに、第二次バルカン戦争にはいぼくしたバルカン諸国のブルガリアもドイツ側についた。


第一次世界大戦

第三次バルカン戦争として第一次世界大戦が勃発

 第一次世界大戦は、サラエボ事件で始まった。サラエボは、現在のボスニアヘルツェゴビナの首都である。当時、ボスニアヘルツェゴビナオーストリア領であった。しかし、バルカン諸国の一つセルビアボスニアヘルツェゴビナセルビア編入を試みていた。そのような中14年、オーストリア皇太子がサラエボを訪問。セルビア人青年に暗殺された。オーストリア王室はこれに激怒。オーストリアセルビアへ侵攻した。この激怒は、イギリスもドイツも止めることはできなかった。そのため、全世界国民を巻き込む第一次世界大戦まで発展しまった。

 ちなみに、その後のボスニアヘルツェゴビナの歴史だが、第一次世界大戦後、セルビアとともにユーゴスラビア王国を建国した。1980年代にはサラエボ冬季オリンピックが開かれた。しかし、80年代後半の東欧革命でユーゴスラヴィアが解体される。92年のボスニア戦争では甚大な被害が出た。

イギリス政治、普通選挙制の導入で労働者の発言力が高まる。 

 イギリスは、第一次世界大戦中に徴兵制を導入した。その見返りに18年正教法改正で男子普通選挙制を導入した。普通選挙とは、身分や納税額に関係になく誰でも投票できる選挙のことを言う。それまでの選挙は、一定の納税額がないと投票権を持てなかった。ちなみに、日本では7年後の1925年に導入された。

 また、徴兵制で男性がいなくなると、女性労働者が登場した。これを踏まえ、18年選挙法改正では女性参政権も認められた。

 これにより、多くの労働者が投票権を得た。これが20年代マクドナルド労働党政権につながる。

 なお、この頃2大政党は05年から22年まで自由党政権が続いていた。

イギリス経済、困窮するイギリス 金本位制をやめる。

 イギリスは、19世紀初頭から金本位制を導入していた。金本位制とは、イングランド銀行が通貨と金の交換を認める制度である。これは通貨の信用力を与える一方で、通貨発行量を限定されることになった。イギリスの金本位制で多くの金融機関がイギリスに集まった。イギリスは世界の銀行と呼ばれるようになった。このころ、イギリスは、アメリカやドイツに工業生産力は抜かれており、金融産業が重要な産業になっていた。

 しかし、第一次世界大戦が激化すると世界中で金本位制を停止。イギリスも例にもれず金本位制を停止した。19年に第一次世界大戦終戦すると、第一次世界大戦の被害が少ないアメリカがイギリスに先駆けて19年に金本位制を復活させた。(イギリスが金本位制に復活するのは20年代後半)これにより多くの金融機関がロンドンからにゅよーくへ移った。現在でもニューヨークが世界の金融機関の中心であり続けている。

イギリス王室、ハノーヴァー朝からウィンザー朝に変更

 現在のイギリス王室は、ウィンザー朝である。しかし、第一次世界大戦期までハノーヴァー朝と呼ばれていた。このハノーヴァー朝は、イギリス貴族が18世紀初頭にドイツから招いた王室である。そのため、ドイツと戦争するうえで、ドイツゆかりのハノーヴァー名乗ることはできなかった。そのため、第一次世界大戦中の17年にウィンザー朝に改称した。

 なお、この時のイギリス国王は10年に即位したジョージ5世である。

 ヴェルサイユ条約

 19年、第一次世界大戦終結した。ヴェルサイユ条約でドイツは、多額の賠償金の支払と海外植民地の放棄を約束させられた。また、この時、国際連盟の結成もきまった。

 ドイツの海外植民地の分配は、のちに成立する国際連盟で決定された。アフリカ植民地はヨーロッパ諸国で分割された。中国の山東省は、日本が統治。太平洋は、赤道以北を日本が、赤道以南をイギリスが譲り受けた。アメリカはこの条約で植民地を獲得することはなかった。

 アジアでの第一次世界大戦戦勝国側についたのは、日本と中華民国袁世凱政権)である。山東省の日本統治に中華民国は反発した。この問題は20年代ワシントン会議に持ち越されることになった。

 


イギリスの外交と植民地政策

アイルランド自治

 アイルランド自治法は、自由党が何度も提出した法案である。05年から続く自由党政権によって、14年、アイルランド自治法が成立した。しかし、その後勃発した第一次世界大戦によって、施行は延期された。16年、これに藩閥する蜂起がおきた。イースター蜂起である。ここから、イギリスとアイルランドは戦争状態になった。20年にジョージ=ロイド挙国一致内閣によって、アイルランド統治法が成立。22年、アイルランド自由国が成立した。

エジプト保護国

 3C政策の一角、エジプトはこの時、どのような状態だったのだろうか。エジプトではワフド党の独立運動が行われていた。第一次世界大戦前までは武力で鎮圧し続けていた。しかし、第一次世界大戦で鎮圧をも不可能となった。19年のヴェルサイユ会議にはワフド党の代表を派遣。エジプトの独立を訴えた。これに応じてイギリス政府は22年、防衛権を維持したうえでエジプト王国の政府を認めた。

三枚舌外交

 エジプトの東、アラブではどのようになっていただろうか。アラビアはオスマン帝国支配下にはいっていた。イギリスは、インドとエジプトをつなぐルートをめぐってアラビアにも影響力を持ちたかった。そのため、その時に支援を求めたのがハーシム家であった。ハーシム家は当時、イスラム教の聖地メッカとメディナの太守であった。この時に締結したのがフセイン=マクホマン協定である。ハーシム家は、イギリスの支援の下、オスマン帝国からの独立運動を行っていた。

 一方で、金本位制の停止と戦費の調達で、イギリスは国債の販売に苦しんでいた。そのため、ユダヤ人資本家ロスチャイルドに支援を求めた。その見返りにユダヤ人に約束したのがイスラエルの建設である。これがバルフォア宣言である。

 一方で、イギリスは、同盟国のフランス・ロシアと旧オスマン帝国の中東領の分割について話し合われた。イギリスはアラビア南部に興味があった。そのため、ロシアには、トルコ、ペルシアと係争を続けていた北部カフカス地方を、フランスにはシリア北部を、イギリスは、イラクメソポタミア)とシリア南部を分けることととした。これがサイクス=ピコ協定である。

 しかし、この三枚舌外交は、ロシア革命によって全世界に暴露されてしまった。この問題は、現在も続くパレスチナ問題の最大の要因といわれている。

インド統治法、第三次アフガン戦争

 中東のさらに東、3C政策の一角、インドはどのようになっていたのだろうか。イギリス政府はインド人の支援を求めるためインド人の自治を約束した。これによって成立した19年インド統治法である。これにより地方政治はインド人の自治が認められた。しかし、中央政府は引き続きインド人が握った。また、過激な独立運動を防止するため、ローラット法も成立した。インド人はこれを不服とし、ガンジーらを中心に第一次非暴力不服従運動が始まった。

アジアでは、

 さらに東、中国の情勢はどのようになっていただろうか。当時、イギリスは長江流域の江南に勢力圏を持っていた。このころ中国北部では、日露戦争でロシアが撤退。山東省(1890年代の中国分割で獲得)に拠点を持つドイツを日本が攻撃していた。当時の日本は、日英同盟を締結し、日露戦争の勝利で乗りに乗っていた。

 このころ、中国は清王朝であったが、11年中国南西部の四川省で暴動がおこる。これをきっかけに辛亥革命が始まった。12年に清王朝最後の皇帝溥儀が廃位。中華民国袁世凱政権が樹立した。14年に第一次世界大戦が樹立すると袁世凱政権はイギリスに協力した。山東省の統治を中華民国袁世凱政権)と日本で争うことになった。15年、袁世凱政権は、日本の21か条の要求で山東省の日本の支配を認めた。ヴェルサイユ条約でもこれが追認された。しかし、20年代に入り、ワシントン会議でこれが無効とされ、中華民国に返還された。

ロシア革命でロシアが離脱

 ロシア革命は、第一次世界大戦の真っただ中に行われた。これにより、ロシア帝国は崩壊。ソ連が成立した。ソ連は即時に宣戦から離脱した。「平和のための布告」を発表。民族自決の原則がここで示された。

アメリカの参戦で、イギリスが勝利

 アメリカは、原則としてヨーロッパの戦争には興味がなかった。そのため、第一次世界大戦では中立の立場をとっていた。しかし、アメリカの商業船がドイツの潜水艦に攻撃されると一転、イギリス側(三国協商側)で参戦した。

 ソ連が、「平和のための布告」で民族自決の原則を示すと、アメリカのウィルソン大統領はこれに対抗するように「14か条の原則」を発表した。ここでも民族自決の原則を示した。これはソ連への対抗意識もあったが、イギリスの持つ大量の植民地を戦後アメリカの味方につけたい意味もあった。これは、第二次世界大戦後に実現。アメリカが世界のリーダーになるきっかけとなった。

 「14か条の原則」は、崩壊した四国同盟と神聖同盟の代わりになる国際組織の提唱がおこなれた。これがヴェルサイユ条約国際連盟の形で成立した。

 ヴェルサイユ会議では、日本が人種平等原則を国際連盟の規約に加えようとしていた。多くの国がこれに賛成した。しかし、当時のアメリカは移民排斥法を成立。中国人や日本人の流入を止めようとした。そのため、人種平等原則に反対。これにより、人種平等の原則は国際連盟の規約にはくわえられなかった。

 その後、ウィルソンはアメリカ議会に批准を求めたがモンロー主義で否決。アメリカは国際連盟に参加しなかった。

サイドストーリー

タイタニック号沈没

 このころ、ヨーロッパとアメリカを結ぶ大型客船が登場した。これらの客船は、主にイギリス企業が行っていた。その一つがタイタニック号である。これらの客船には、多くな富裕層が乗船した。一方で、低料金の客室には、アメリカ大陸で一旗揚げようと多くの移民が乗船していた。このころアメリカに渡った移民は、イタリア人などの南欧系、ポーランドやロシアなどの東欧系、ユダヤ人などであった。これらの移民は、低賃金労働者の提供になるとともに、多くの実業家もこのときアメリカへ移住した。これらの移民は「新移民」といわれ、アイルランド人などそれ以前からの移民と競合するようになった。

 12年4月、この大型客船タイタニック号は氷山に衝突し、沈没した。これは97年にレオナルドディカプリオ主演で映画化された。

南極到達

 20世紀に入ると極地探検が行われるようになった。イギリス海軍は極地探検にスコット隊を変遷荒れた。1900年代、北極点はアメリカのピアリに後れをとった。1910年代にはいると、極地探検の舞台は南極になった。イギリスのスコット隊とノルウェーアムンゼン隊が争った。11年12月ノルウェーアムンゼン隊が南極点に到達。イギリスのスコット隊はその1か月後南極点に到達したが、その後遭難死した。


この頃の日本は

 

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 同盟国フランスは

 

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