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1940年代後半のイギリス アトリー労働党内閣 「ゆりかごから墓場まで」

 1940年代後半、第二次世界大戦直後。イギリスはどのように立ち回ったのだろうか。
 ベルリンが陥落した直後の総選挙で労働党政権が復活した。アトリー内閣である。アトリー内閣は社会主義型政策を進めていった。

 

前回の復習 50年代のイギリス

  50年代、保守党のチャーチル首相が政権を奪還。保守党の長期政権が始まる。軍事費と社会保障費で軍事費は火の車であった。そのような中で中国・インドなど第三勢力が台頭。スエズ戦争第二次中東戦争)でエジプトに敗北。60年代に入り、多くの植民地を失うとともに、英国病不況が始まる。

アトリー労働党政権樹立

 45年5月、ドイツが降伏。ヨーロッパでの第二次世界大戦終結した。その年の7月イギリスで総選挙でがおこなれた。第二次世界大戦の勝利で支持率が急上昇した与党保守党のチャーチル首相が勝利するものと思われた。

 しかし、結果はアトリー率いる労働党が勝利した。ヨーロッパでは1920年代ごろから社会党系政権が強かった。ヒトラーもその一人であった。イギリスではマクドナルド労働党が勝利していた。第二次世界大戦終結してもその傾向は続いた。47年フランス(第四共和政)でも社会党系の連立政権が樹立されている。

2人のリーダーが変わるポツダム会談

 イギリスで総選挙が行われている7月、重要な首脳会談が開かれていた。場所は、焼け野原となったドイツの首都ベルリン郊外のポツダムである。参加したのはアメリカ、イギリス、ソ連である。そのあと成立する国際連合常任理事国である。
残りの2か国。フランスと中華民国である。フランスは昨年44年8月にパリ解放が行われたばかりで首脳会談にほぼ呼ばれない。中華民国に至ってはいまだに日中戦争終結していない。

 この時、会談に参加したのはアメリカのF=ローズヴェルト大統領、ソ連スターリン書記長、イギリスはチャーチル首相であった。ちなみに、フランスはまだ内閣がなく、11月にド・ゴール臨時内閣が樹立。中華民国は、蔣介石(国民党)である。

 この会議の最中に会談メンバーが入れ替わった。イギリスは総選挙の結果、チャーチルからアトリーに変った。そして、この会談の最中にF=ローズヴェルト大統領がなくなり副大統領だったトルーマン大統領が誕生した。

 トルーマン大統領は、イギリス労働党のアトリーとソ連スターリン書記長の左派メンバーに囲まれた。この時、2つの衝撃の事実を知る。1つは8月のソ連の対日参戦(ヤルタ密約)。2つ目は、原爆の完成である。

広島長崎に原爆を投下

 トルーマン大統領は焦った。イギリスが労働党政権に変ったことでソ連の発言力が強まった。何としても日本はアメリカ主導で勝利に導く必要があった。そのため、ソ連参戦前に日本を降伏させる必要があった。しかし、日本は決断ができなかった。その結果、ソ連参戦直前の8月6日、トルーマン大統領は悪魔の決断を行った。広島への原爆投下である。8月8日ヤルタ密約によってソ連が対日参戦。満州樺太、千島列島と北方領土へ侵攻した。8月9日、アメリカ長崎へ原爆樋下。8月15日ようやく日本は降伏した。人道的問題はあるものの、トルーマン大統領は原爆を利用してアメリカ主導の日本占領政策を行うことができた。

チャーチル前首相、アメリカで「鉄のカーテン」演説

 野党になった保守党チャーチル首相は終戦の翌年46年、アメリカで共産主義との戦いを主張した。言葉は悪いが負け犬の遠吠えである。これが「鉄のカーテン演説」である。

 しかし、アメリカのトルーマン大統領はこれに呼応した。47年、ギリシャとトルコの軍事支援を約束した(トルーマンドクトリン)。当時、ギリシャとトルコはソ連ににらまれていた。そして、ヨーロッパへの経済援助を約束した。(マーシャルプラン)。当時フランスやイタリアではソ連の息のかかった共産党が勢力を伸ばしていた。そのため親米政党が勝つために行った。

アトリー労働党政権の経済政策 大きな政府

 ここで、主人公アトリー首相の政策を見ていこう。労働党の経済政策は一貫してバラマキ政策でる。その2つの柱は、社会保障費の増大と企業の国有化である。社会保障費の増大のスローガンとしてはゆりかごから墓場までである。また、イングランド銀行など重要産業の国有化を進めた。

アトリー労働党内閣の外交政策 アジア植民地の独立

 アトリー労働党内閣にとって、植民地は重要ではなかった。アジアの独立運動を容認していった。その中心は47年のインド独立法である。

 これにより、第三勢力が台頭。50年代のスエズ戦争敗北、60年のアフリカの年につながる。
 47年 インド独立法→ インド、パキスタン
 48年 スリランカ
 48年 ミャンマー
 57年 マレーシア 保守党政権下で独立

アトリーが見捨てた中東で第一次中東戦争  

 このころ、中東は大きな問題を抱えていた。イギリスの三枚舌外交である。ユダヤ人とアラブ人にイスラエルの地を約束していた。

 アトリー労働党内閣は、これを国連に丸投げした。47年11月、国際連合パレスチナ分割案を提示。当時、世界の中心はアメリカであった。アメリカにはユダヤ系移民が多数生活していた。そのため、ややユダヤ人に有利な分割案になった。ユダヤ人はこれを受け入れたが、アラブ人は受け入れなかった。48年5月、ユダヤ人が国連の分割案に基づきイスラエルの建国を宣言。これに、アラブ諸国が反発。第一次中東戦争が勃発した。

 第一次中東戦争イスラエルは勝利。イスラエルは建国が認められるとともに国連分割案より広い領土が認められた。

冷戦第1ラウンド、ベルリン封鎖

 トルーマン大統領とスターリン書記長の対立はついに表面化した。第二次敗戦国のドイツがその舞台になった。

 ドイツは終戦後、分割統治された。これに参加したのは、アメリカ、ソ連、イギリス、フランスである。首都ベルリンはソ連の担当エリアにあったが、これは別としてさらに4つに分割された。これで誕生した飛び地が西ベルリンである。

 ベルリンの壁東ドイツと西ドイツの国境にあったものと誤解している人も多いがそうではない。西ベルリンを囲んでいたのがベルリンの壁である。なお、ベルリンの壁が建設されたのは60年代のことで、建国当時はなかった。

 48年6月、アメリカ、イギリス、フランスで通貨改革を行った。これにソ連は反発。西ベルリンを経済封鎖した。ベルリン封鎖である。西ベルリンは、食糧、水道・電気など生活必需品に事欠くようになった。そのため、アメリカなど西側諸国は西ベルリンへの空輸作戦で西ベルリンの物資不足に対応した。49年5月ソ連ベルリン封鎖海上された。

 ベルリン封鎖の期間の中の49年3月にソ連は原爆の核実験に成功していた。ただ、ソ連はこのことを公表していない。一歩間違えれば米ソの核戦争の危機であった。これから冷戦は核戦争をいかに回避するかがキーワードになっていく。

 49年9月、西ドイツと東ドイツがそれぞれ建国した。同じ9月、ソ連は原爆実験に成功したことを公表した。

 

西側陣営の軍事同盟、NATOの結成。

 ソ連への警戒から、西側諸国で軍事同盟が結ばれた。48年3月に西ヨーロッパ連合条約を結成。48年6月にソ連ベルリン封鎖を行われる。これを受けて、49年、アメリカが参加した軍事同盟NATOが結成された。

中華人民共和国成立 アトリー労働党内閣はこれを承認

 このころ、日本軍が撤兵しした中国では内戦状態にあった。アメリカ・イギリスが支援する国民党(蒋介石)とソ連が支援する共産党毛沢東)の戦いである。

 この内戦は、毛沢東率いる共産党が勝利。49年10月1日中華人民共和国の建国が宣言された。東西ドイツが成立したのと同じ年である。アメリカなど西側諸国はこれを認めなかった。しかし、アトリー首相はこれを承認した。50年代、アトリー首相が独立を認めたインドと連携をとり第三勢力を結成していく。

 一方、敗北した国民党の蒋介石は台湾へ逃亡。中華民国を存続させた。そのため、国連には蒋介石率いる国民党が参加した。中華人民共和国が国連に参加するのは70年代(ニクソンショック)の時代になってからである。

このころ日本は

 

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 イギリスが承認した中華人民共和国とは

 

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 同じ社会党系政権が成立したフランスは

 

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