10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。

1950年代のトルコ・ギリシャ 第二次中東戦争で第三勢力が台頭

 1950年代、日本はサンフランシスコ講和条約で独立を回復。朝鮮戦争をきっかけに高度成長期に入っていく。

 このころ、トルコとギリシャは、アメリカにとって重要な拠点であった。そのため、40年代トルーマン=ドクトリンを出し、2つの国の親米政権を支えていた。
 そのような中、第二次中東戦争スエズ動乱)が勃発した。

 

 

 前回の復習 トルコ、ギリシャで親ソ政権が成立

 1960年代、トルコ・ギリシャで親ソ政権が次々成立した。その理由は、西側勢力の衰退がある。今回はそのきっかけである。第2次中東戦争スエズ動乱)を見ていきます。

親米政権のトルコとギリシャ

トルコ、親米政権のメンデレス政権

 トルコでは、ソ連を警戒した親米政権メンデレス政権が成立した。メンデレス政権はソ連に対抗するため、2つの軍事同盟に加盟した。NATOとMETOである。

 NATO北大西洋条約機構)とは、ヨーロッパを中心とした西側(アメリカ陣営)諸国の軍事同盟である。49年に結成。トルコは、52年にギリシャとともに加盟した。

 METO(バグダード条約機構)とは、中東諸国を中心とした西側(アメリカ陣営)諸国の軍事同盟である。詳細は後述。

 しかし、50年だ後半に入ると。トルコでは、経済不振によって政治不信が高まった。また、第二次中東戦争の影響で西欧諸国の影響力が薄くなっていた。60年に軍事クーデターで、メンデレス首相は失脚、処刑された。

 ギリシャ 内戦に勝利した親米の国王派

 ギリシャ内戦によって、親米派の国王派が政治を取り仕切っていた。ギリシャ朝鮮戦争に派兵を行った。51年にはNATOに加盟。ギリシャアメリカのコントロール下におかれた。
 軍も、政府ではなく国王に忠誠を誓い、王室の権限が強化された。

 51年、親米派ギリシャ国民連合)のパパゴス政権が成立した。ギリシャの共産化を恐れるアメリカのトルーマン大統領はこれを積極的に支援した。パパゴス政権はインフレ抑制に成功。安定成長を開始した。

 

 55年パパゴスが亡くなると、同じ親米派のカラマンリス政権が成立した。総選挙で親ソ派政権が躍進。政局は不安定になった。ちなみに、日本で自民党社会党による55年体制が確立したのもこの頃である。

ギリシャキプロス問題でイギリスと対立

 ギリシャのカラマンリス政権は、大きな外交問題を抱えていた。キプロス問題である。

 キプロス島は、東地中海に浮かぶ島である。地理的関係からギリシャ系住民が多く住んでいた。
 1870年代のベルリン条約(露土戦争)でキプロス島はイギリス領になっていた。当時イギリスはエジプトの植民地化を進めていた時代である。このベルリン条約を取り仕切ったのがドイツの宰相ビスマルクであった。
 第二次中東戦争スエズ動乱)が勃発すると、キプロス島でもギリシャ編入を求める軍事運動が勃発した。
 60年のアフリカの年、キプロス島イギリス連邦の一員としてキプロス共和国として独立を果たした。

アラブ人が、第二次中東戦争スエズ動乱)に勝利

エジプト革命でナセル大統領が誕生

 第一次中東戦争に敗北したエジプトは、反イギリス勢力のワフド党が台頭した。ワフド党は、エジプト国王は、ワフド党を利用して国民の支持を集めようとした。しかし、ワフド党は反英蜂起に失敗。ワフド党の特権階級や富裕層との癒着も問題視され、国民の国王の支持はさらに低下した。

 ナセルら青年将校らが軍事クーデターを実施。これをエジプト革命という。ムハンマド=アリー朝は崩壊。エジプト共和国が成立し、王政から共和制へ移行した。ナセル大統領が誕生した。

METO(バグダード条約機構)の結成

 ナセル大統領は、ソ連に接近した。当時ソ連は、スターリンがなくなり集団指導体制になっていた。アメリカも政権が代わり、アイゼンハワー大統領になっていた。

 アイゼンハワー大統領は、エジプトの共産化を恐れて新たな軍事同盟を組織した。前述のMETO(バグダード条約機構)である。

 この同盟には、イギリスとトルコ、親米政権のイラク、親米パフレヴィー朝のイラン、そしてインドと緊張関係にあるパキスタンが加盟した。METOの拠点は、イラクバグダードに置かれた。

スエズ運河国有化問題

 アイゼンハワー大統領はナセル大統領に圧力をかけた。アスワン=ハイダムの建設資金の提供を凍結である。しかし、エジプトのナセル大統領はこれに屈さなかった。新たな資金源確保のため、スエズ運河国有化宣言を行った。イギリスとフランスが保有していたスエズ運河を無償で国有化したのである。イギリスとフランスがこれに反発。イギリス、フランスとイスラエルがエジプトへ侵攻した。これによりおきたのが第二次中東戦争こと、スエズ動乱である。

ナセル大統領、第三世界を味方につけて勝利

 この戦争は、エジプトにたいし、イギリス、フランスおよびイスラエルが侵攻した。軍事力で圧倒的に差があり、ワンサイドゲームになりつつあった。

 しかし、ナセル大統領に2人の救世主が現れた。1人目はソ連フルシチョフ書記長である。この戦争のきっかけはエジプトのソ連への接近である。フルシチョフ書記長はそれに呼応し、イギリス、フランスを批判した。もう一人は、アメリカ共和党アイゼンハワー大統領である。アイゼンハワー大統領は、ナセル大統領が完全に親ソ政権になることを恐れていた。

 これにより、第二次中東戦争は、イスラエル旧宗主国(フランス、イギリス)VS エジプトなど第三世界アメリカ、ソ連の構図になった。2大強国アメリカ、ソ連を敵に回して勝てるはずがなく、イギリス、フランスは撤兵した。

 第三世界とは、アメリカともソ連とも距離をおき、途上国の発言力を高めようとする動きである。その中心は、中華人民共和国周恩来首相とインドのネルー首相であった。この動きはインドシナ戦争の講和会議であるジュネーブ講和会議のころから強くなっていた。

第二次中東戦争後の世界

敗戦国イギリスとフランスは60年アフリカの年へ

 イギリスとフランスは、第二次中東戦争で植民地を維持することの難しさを痛感した。この後、中東アフリカ地域でも多くの国の独立を容認するようになる。
 イギリスは、植民地の喪失やフランス、西ドイツや日本の経済復興によって、60年代から70年代の長期不況に入る。英国病の時代である。
 一方、フランスは第四共和政が崩壊。ド・ゴール大統領による第五共和制へ移行する。そして、ド・ゴール大統領は60年アフリカ植民地の独立を承認した。アフリカの年である。

戦勝国エジプトは、シリアと合併

 第二次中東戦争に勝利したエジプトのナセル首相は、バース党政権のシリアと合併。アラブ連合共和国となった。アラブ連合共和国は、反米親ソ政策をとった。
 しかし、ナセルの主導権が高まると、シリアは反発。62年シリアは再び独立した。

 イラク革命で 親米政権が崩壊

 イラクは、中東のほぼ中央部に属する国で、バグダードを首都にしている。1930年代(戦間期)にイギリスから独立した。50年代、親イギリス派のハーシム王家が統治していた。しかし、第二次中東戦争で反イギリス感情が強くなっていた。
 58年、軍事クーデターが発生。王政が崩壊、国王は殺害された。これによりイラク共和国が成立した。イラク共和国は、METO(バグダード条約機構)から脱退した。METOとは、親米的な中東諸国によるソ連を仮想敵国とした軍事同盟である。イラクの脱退により、METOは本部をバグダードからトルコのアンカラへ移した。条約名もCENTO(中央条約機構)に変更された。CENTOは70年代末のイラン革命によって解体された。

レバノン暴動 キリスト教徒 VS イスラム教徒

 レバノンは中東東部の国で、第二次世界大戦中にシリアから独立した。もともとキリスト教徒の多い地域であったが、第一次中東戦争の影響でパレスチナ難民が流入した。これにより、イスラム教徒が急激に増加した。そのため、キリスト教徒とイスラム教徒の対立が激化した。

 第二次中東戦争スエズ動乱)の勝利で、アラブ人は沸いていた。レバノン国内のアラブ人(イスラム教徒)は。58年7月、親米的なキリスト教徒政権に対して蜂起した。アメリカのアイゼンハワー大統領はレバノン海兵隊を送り込んだ。しかし、国際的な批判をあび、国際連合でも非難決議を受けた。そのため、58年10月レバノンから撤兵した。

 

この頃の日本は

 

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第二次中東戦争に敗戦したイギリスは

 

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