1980年代後半のイギリス サッチャー首相とベルリンの壁崩壊
1980年代後半、日本は平成時代が始まり、バブル経済が崩壊した。
このころ、ヨーロッパも大転換期を迎えていた。89年革命(東欧革命)である。東欧の社会主義国で次々革命が発生した。その象徴が、ベルリンの壁崩壊である。
イギリスでは、「鉄の女」と呼ばれる保守党サッチャー首相が自由主義的経済政策を進めていた。
前回の復習 90年代のイギリス
90年代、保守党メージャー首相が誕生。このころになると、サッチャー首相の自由主義的経済政策の負の側面が前面に出てくるようになる。その結果、97年総選挙で保守党が敗北。ブレア労働党政権が誕生した。
東欧革命(89年革命)とベルリンの壁崩壊
88年、ソ連のゴルバチョフ書記長は新ベオグラード宣言で「制限主権論」(ソ連の共産主義圏に対する内政干渉)を否定した。
これにより、東欧諸国の民衆は、ソ連の軍事介入が行われないことを確信。89年1月のハンガリーの複数政党制(共産党以外の政党の容認)を皮切りに、次々と東欧諸国で共産党独裁政権が次々崩壊していった。89年11月には、西ベルリンを囲んでいたベルリンの壁が崩壊。90年3月には東西ドイツは統一された。ソ連自体も、90年に大統領制を導入。91年12月にはソ連そのものが解体された。
89年12月、地中海のマルタ島でアメリカ共和党ブッシュ大統領とロシアのゴルバチョフ書記長が会談。冷戦の終結が宣言された。
サッチャー首相の外交
親米路線と冷戦の終結
サッチャーの外交政策は、親米路線であった。同じ親米路線をとっていたのが日本の中曽根首相であった。日米英が最も親密な関係が、レーガンの強いアメリカ政策を支援した。それが大きく出たのがモスクワオリンピックボイコット事件である。
この関係により、ブッシュ大統領も強気の外交を行うことができた。これが冷戦の終結に結び付いた。
ドイツ統一はナチスの復活?
89年11月、ベルリンの壁が崩壊。翌90年、東西ドイツは統一された。このことに対して、サッチャー首相は、フランスのミッテラン大統領とともにナチスドイツの再来を懸念させた。とくに、サッチャー首相は反共を重視しているため、東ドイツがEUに入ることにも懸念を示した。
サッチャー首相は、脱EU派の急先鋒として活躍するようになる。
南アフリカの黒人差別政策(アパルトヘイト)
南アフリカ共和国は、1961年、イギリスから独立したアフリカ最南端の国。南アフリカは黒人差別政策を行った。
この政策は国際的に批判を浴びていた。そのため、多くの国が南アフリカ共和国への経済制裁を行った。
80年代にはいり、アパルトヘイト政策に対する国際世論はさらに厳しくなった。77年、反アパルトヘイト活動を行っていた大学生が
80年代、多くの国が経済政策の強化を行った。しかし、サッチャー首相は経済制裁を強化しなかった。その理由は、表向きは南アフリカへの経済制裁がかえって黒人の白人への経済的従属を強める。本音は、貧困による共産主義革命を防止したいと思われる。
湾岸戦争と人間の盾
90年8月、イラクがクウェートへ侵攻。湾岸戦争が勃発した。イラクがクウェートへ侵攻した際、クウェートの空港にあったイギリスの航空機が拿捕。乗客と乗務員はバグダードへ連行され、人間の盾にされた。
サッチャーリズムとサッチャー首相の退陣
サッチャーの経済政策は、新自由主義政策と呼ばれた。具体的には、国有企業の民営化、規制緩和などである。税制も富裕層に有利な政策をとっていた。付加価値税(日本でいう消費税)の増税と法人税・所得税の減税である。また、70年代のインフレを受けて公定歩合(金利)を引き上げた。
しかし、高度の経済成長を実現する一方で負の側面も見えていた。82年に世界大恐慌並みの失業率の高さを出した。その後、86年まで続いたため、公定歩合(金利)を引き下げを実施。ようやく失業率の低下が始まった。
ウィンブルドン現象
ウィンブルドン現象とは、もともとスポーツ界の用語でイギリスの有名な国際テニス大会ウィンブルドンで外国人勢の優勝が続く減少で、日本の角界(大相撲)でも言われるようになっている。
80年代の規制緩和で、イギリスの金融機関が次々外資系企業に買収された。このことを当時、ウィンブルドン現象と呼んだ。
サッチャー首相退陣
サッチャー首相は、人頭税の導入やEU参加に消極的な態度から保守党内での支持を失い、90年に退陣。
同じ保守党のメージャー首相に政権を譲り渡した。
このころの日本は
イギリスと同じくドイツを警戒するフランスは
冷戦の終結