10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。HPを開設しました。https://sekaishiotaku.com/

1840年代のイギリス じゃがいも飢饉で保守党が分裂

 1840年代、日本は江戸時代後期。天保の改革が行われたころで、遠山の金さんが活躍した時代である。

 このころ、イギリスがアジアに攻めてきた時代である。

 

前回までの復習 パックス=ブリタニカ

 1850年代から1870年代は、イギリス全盛の時代であった。なぜ、イギリスは全盛期を迎えることができたのであろうか。それは2つの要因があると考える。1つは、軍艦の存在である。産業革命で蒸気船を建造する技術力を得たことと、蒸気船を建造する資本力を確保していたからである。もう一つはフランスの停滞である。19世紀前半はフランスは市民革命が頻発した。フランク革命、七月革命二月革命である。

 

41年 保守党ピール内閣

パーマストン外交の失敗で保守党政権へ

 40年、ウィリアムラムのホイッグ党政権であった。このとき、外務大臣を務めていたのがパーマストンである。しかし、このころパーマストン首相の強引な外交が問題視されていた。

 強引に行ったアヘン戦争やアフガン王国に返り討ちにあった第1次アフガン戦争がその例である。これにより、ホイッグ党は支持を失い保守党政権が復活した。

イギリスは、アジアへ侵攻 ~アヘン戦争

 アヘン戦争は、イギリスと清王朝との戦争である。広州では指揮官林則徐が善戦していた。そこで、イギリスは広州をはなれ、上海へ向った。これに清王朝はイギリスに脅威を感じた。清王朝は、イギリスに屈し林則徐を解任した。これにより、清王朝はイギリスに敗北した。

 清王朝は、上海など五港を開港。イギリスに香港を割譲した。これは期限なき割譲であったが、1997年に中国(中華人民共和国)に返還された。また、清王朝はイギリスに対して、片務的最恵国待遇、領事裁判権、協定関税権(関税自主権の放棄)などの不平等条約を締結した。

 このころ、イギリスはアフガンでも戦争を行った。イギリス兵の暴行事件をきっかけに反英運動が起こた。これによりイギリス軍は大敗した。イギリスは再出兵をし、アフガンの都カブールを破壊した。 

金本位制導入で金融大国へ

 ピール首相は、発券銀行イングランド銀行に限定した。発券銀行とは通貨を発行できる銀行のことである。日本では日本銀行である。また、通貨に金との交換を約束した。これにより、通貨の発行量は限定されたが、イギリスの通貨の価値は高まった。これにより多くの金融機関がロンドンに集まり、多くの資本がイギリスへ向った。

アイルランドのじゃがいも飢饉と穀物法廃止

 この頃、アイルランドは貧困にあえいでいた。その理由は、17世紀のクロムウェルの侵攻で、イングランドの植民地となったためである。それ以降、アイルランド人はイングランド地主への高い地代に苦しめられていた。

 そのよう中でじゃがいも飢饉が発生した。じゃがいもはやせた土地でも育つためパンが買えないアイルランド人の主食であった。45年、アイルランドでじゃがいもの伝染病が流行。アイルランド人の生活はさらに苦しくなった。

 じゃがいも飢饉で、国民の10%が餓死した。また、40%の人間が祖国を捨てアメリカへ向った。このころ、アメリカではアメリカ横断鉄道の建設で多くの労働者を求めていた。それをになったのがアイルランド人である。現在でもニューヨークには世界最大のアイルランド人街がある。

 イギリス本国でも、穀物価格が高騰した。これを受け、ピールは穀物法廃止法案を議会に諮った。これまで見た通り、保守党の支持基盤は地主である。そのため、多くの保守党議員は反対に回った。

 小作権の安定 → リストラされない。
 妥当な地代 → 法外な地代は請求されない
 小作権売買の自由 → 定説な料金を支払ったら自作農になれる

 この穀物法廃止は、19世紀イギリスの三大改革の一つといわれている。他の2つは、30年代の選挙法改正(ホイッグ党のグレイ首相、貴族階級以外に選挙権を与える。)と70年代の第3回選挙法改正(自由党グラッドストン首相、男子普通選挙の実施)

46年 ホイッグ党ジョン・ラッセル首相

 

穀物法によって保守党が分裂

 45年、アイルランドで大飢饉が発生。これに対し、ピール保守党は穀物法廃止法案を提出した。これに対し、ディズレーリーなど保守党の三分の二が反対に回った。これまで話のとおり、保守党の支持基盤は地主(農場経営者)であった。穀物法の恩恵を受けていた人たちである。そのため、保守党の大部分は反対に回った。

 穀物法廃止法は、ホイッグ党が法案に賛成してくれたおかげで無事成立した。しかし、造反した保守党と野党ホイッグ党によって、ピール首相は辞任に追い込まれた。
ピール首相は、保守党を離党しピール派を組織した。離党したメンバーの中にはグラッドストンもいた。ピール派は50年代にホイッグ党と合流し自由党を結党する。

 保守党の分裂により、ホイッグ党は第一党になった。46年、ホイッグ党ラッセル首相が誕生した。少数与党ラッセル首相は直ちに議会を解散した。ラッセル首相は、過半数を得ることができなかったが、ピール派が支援してくれたため、政権を維持することができた。

48年 大陸で48年革命 フランス二月革命

 このころ、フランスでは二月革命が発生した。これにより産業資本家(中小企業の経営者)と都市労働者の連合政権が成立した。このころ、イギリスでは参政権拡大を求める運動が活発化した。二月革命チャーチスト運動を皮切りに第2回選挙法改正にむけた政局が動き始める。

 

 

この頃の日本は 

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