1840年代、日本は江戸時代。寛政の改革が行われ、隣国清王朝はアヘン戦争に敗戦したころである。
ヨーロッパでは、フランスの二月革命から始まる48年革命が勃発した。
インドでは、東インド会社は、シク戦争に勝利。インド全域を掌握した。
前回の復習、1850年代のインド
インド全域は、東インド会社の勢力下におかれていた。このときにインド大反乱が勃発した。これにより、ムガル帝国は滅亡。東インド会社も解散され、イギリス政府の直接統治が始まった。
今回は、東インド会社の最後の戦い、シク戦争を見ていきます。
ヨーロッパ情勢、48年革命
1840年代、市民革命が絶頂期を迎えた。48年革命である。フランスは二月革命で第二共和制が起こった。この革命は中欧まで波及した。オーストリアの三月革命、プロイセンの三月革命である。
宗主国イギリスでは、チャーチスト運動とアヘン戦争
イギリス国内は、48年革命を受けて都市労働者を中心に普通選挙(チャーチスト運動)を求める運動が活発化した。一方で、32年の選挙法改正で選挙権を得た資本家は、自由貿易政策を進めた。穀物法廃止や航海法廃止などである。このような背景で、
外交では、アヘン戦争で清王朝(中国)に勝利。清王朝は開港し、香港島を割譲した。
東インド会社、シク戦争に勝利しインド全域を支配下に
シク王国とは
シク王国は、インドの西北部インダス川上流にある国。現在のパキスタン北部、パンジャーブ地方にあたる。シク教徒による国家。18世紀初頭のアウラングゼーブ帝のイスラム教強硬政策に対して反発して独立。
シク教とは
ヒンドゥー教の一派。イスラム教の要素が反映されている。一神教崇拝。偶像崇拝の禁止、カースト制度の否定などを説いた。
第一次アフガン戦争
アフガンは、インドの北西部に当たる内陸国。インド・イラン・中央アジア(ロシア)に囲まれた国である。
38年、東インド会社はアフガンへ侵攻。カジャール朝ペルシアにアフガン王国の独立を認めさせた。この時、東インド会社の軍隊は、アフガン王国に駐屯した。この東インド軍がアフガン王国内で暴行を働いた。41年、アフガン王国で反英運動がおこる。東インド会社軍は、アフガンから撤兵するもアフガン王国によって全滅させられる。42年東インド会社は、捕虜救出のためアフガン王国へ再出兵。首都カブールを破壊した。
シク王国は、インドとアフガン王国の通り道にあたる。この時、シク王国は東インド会社と同盟を結んでいた。
第一次シク戦争
45年、東インド会社がシク王国を挑発してシク戦争が勃発。46年、東インド会社が勝利して終結した。この時、シク王国は賠償金を支払うとともに、カシミール地方を割譲した。この時に誕生したのがカシミール藩王国である。国王はヒンドゥー教徒であった。しかし、民族はイスラム教徒が多い。そのため、カシミールはインドとパキスタンの係争地になる。
第二次シク戦争
48年、シク王国で反英運動が発生。これに対し、東インド会社軍が再びシク王国へ出兵した。49年、東インド会社が勝利した。シク王国は藩王国にならずに東インド会社が直接統治するようになった。
このころの日本は
アフガン戦争の舞台、ペルシアは
48年革命とは