17世紀のインド アウラングゼーブ帝とイギリス・フランスの進出
17世紀、日本は江戸時代初期。鎖国に入り日本独特な文化が構築され始める時代である。このころ、アジアは4大帝国の時代に入った。東から、中国の清王朝、インドのムガル帝国、ペルシア(イラン)のサファヴィー朝、そしてトルコのオスマン帝国である。
インドのムガル帝国は、16世紀後半に活躍した3代皇帝アクバル帝が北インドを統一。17世紀後半に活躍した6代皇帝アウラングゼーブ帝がインドを統一した。この人は宗教面で全く正反対の政策をとった。アクバル帝は異教徒に対して寛容な政策をとった。これは日本でいえば織田信長のような存在といえる。一方でアウラングゼーブ帝は異教徒を弾圧する政策をとった。これは、鎖国を実施した徳川家光のような存在といえる。
一方で、ヨーロッパのアジア進出は第2波が始まった。その中心国はイギリス、オランダ、フランスである。
- 前回の復習 18世紀の復習
- インド版織田信長、アクバル帝の崩御
- ヨーロッパの来航、第2波
- 北インドのムガル帝国が世界遺産タージマハルを建設
- 49年 南インドで最後のヒンドゥー教国ヴィジャヤナガル王国が滅亡
- 質素倹約、インド版徳川家光 アウラングゼーブ帝
前回の復習 18世紀の復習
18世紀、アウラングゼーブ帝がイスラム教の強制により、異教徒たちが反乱を起こした。ムガル帝国はインドは分裂状態になった。北からはアフガン人が侵入。南からはフランス、イギリスが台頭。
今回は、ムガル帝国の特徴的な2人の皇帝。アクバル皇帝とアウラングゼーブ帝が登場します。その2人の政策の違いが1つ目のテーマです。2番目は、イギリス、フランスがどのようにインドへ進出していったか。ヨーロッパ情勢と比較しながら見ていきます。
インド版織田信長、アクバル帝の崩御
インドの17世紀はアクバル帝の崩御で始まる。アクバル帝は、古来インドのヒンドゥー教に対して、寛容な態度を示した。一方で、アフガニスタンからバングラデシュにわたる北インドの大帝国にしたのもアクバルであった。アクバルの政治については、次回、16世紀のインドで詳細に書きます。
ヨーロッパの来航、第2波
16世紀、インドへ進出していたのはポルトガルであった。このポルトガルは、16世紀の終わりごろ、スペインと合併した。太陽の沈まぬ国の誕生である。スペインは、ヨーロッパ、新大陸(アメリカ)、インドと世界中に領土を持つ大帝国となった。
一方で、ヨーロッパではスペインに対抗する勢力も誕生した。イギリス、フランス、オランダである。これらの国の共通点は、16世紀の宗教改革で誕生したカルヴァン派が支えている点である。
イギリス、オランダの進出 ~東インド会社の設立~
イギリス、オランダ、フランスは、それぞれ東インド会社を設立した。東インドとは、当時アメリカは、コロンブスの間違いから西インドと呼ばれていた。そのため、本当のインドがヨーロッパでは東インドと呼ばれるようになった。これらの会社は政府が商人から資金を集めて国王が特権(貿易独占権)をあたえて行った。これが可能になったのは、16世紀までに、大規模な資本を持つ商人が登場したことを示している。一方で、国王は東インド会社によって莫大な財産を築いた。これが17世紀後半からの絶対王政につながる。
イギリスは、00年に東インド会社を設立した。当時のイギリスはエリザベス1世の黄金期であった。イギリス国教会で教会財産が国家に集中した。また、16世紀末にはスペインの無敵艦隊を破っている。
オランダは、02年に東インド会社を設立した。当時オランダはスペインとの独立戦争の真っただ中にあった。
オランダ東インド会社は今の企業では当たり前の方法でイギリス東インド会社に圧倒的な差をつけた。これは、決算である。イギリスは、一回の航海ごとに出資金と利益を分配していた。そのため、次の航海を行うためにはまた資金集めから行わなければならなかった。しかし、オランダは出資金と利益をそのまま次の航海の資金とした。そのため、イギリスよりも早く航海に行けるようになった。そのため、オランダ東インド会社は世界初の株式会社といわれている。
フランスも、04年に東インド会社を設立した。しかし、フランスは温暖な農業国のためイギリス・オランダのように資金がなかなか集まらず。早々に撤退した。フランスはイスラム教のオスマン帝国と友好関係が気づけていたので東インドにはあまり興味がなかった。
イギリスVSオランダ アンボイナ事件
これら東インド会社にとって、大きな収益源は東南アジアの香辛料である。当時のインドは、その中継地点に過ぎなかった。
当初、イギリスとオランダはアジア進出については友好的であった。それは18年共通の敵、スペインの存在があったからである。
00年、イギリス、オランダは共同の船で日本を訪れている。当時の日本は関ケ原の戦いに勝利した徳川家康が江戸幕府を築く直前であった。このときの船員がのちの江戸幕府の外交顧問になった。オランダのヤン=ヨーステンとイギリスの三浦按針である。徳川家康もイギリス、オランダと同様スペインを脅威に感じていた。当時のスペインは、東南アジアのフィリピンを支配していた。また、九州には多くのキリシタン大名がいて、スペインとの共同戦線の準備をしていた。
しかし、18年、ヨーロッパで三十年戦争が始まるとアジアでのスペインの影響力は低下した。これにより、イギリスとオランダは対立するようになる。23年、アンボイナ事件である。イギリスはこの事件でオランダに敗北。イギリスは東南アジアから撤退した。また、日本も九州で島原の乱が発生。スペインの支援を受けられない九州のキリスト教勢力は敗北した。これにより、39年、江戸幕府は鎖国に踏み切った。日本との交易もオランダが独占するようになる。
一方、イギリス東インド会社は、インドとの交易に注力するようになる。イギリスはムガル帝国が進出していない南インドに拠点に置いた。40年南インドのマドラスである。一方は、オランダは東南アジアとヨーロッパの寄港拠点としてインドではスリランカ島。アフリカでは南アフリカに拠点を築いた。これらの地域は19世紀初頭のウィーン会議でイギリス領になる。
北インドのムガル帝国が世界遺産タージマハルを建設
第5代皇帝シャー=ジャハーンが首都アグラに建造した。
31年に愛する后のために建てたイスラム教のお墓。しかし、インド文化も取り入れられ、現在、インド=イスラム文化の象徴して世界遺産に登録されている。
49年 南インドで最後のヒンドゥー教国ヴィジャヤナガル王国が滅亡
イギリスが進出した南インドはどのような状況であったのであろうか。北でムガル帝国が勢力を伸ばしている頃、南インドにあったのがヴィジャヤナガル王国である。14世紀に成立したヒンドゥー教の国である。南インドは、このほかにもイスラム教の国が複数あり、互いにけん制しあったいた。これら、南インドのイスラム勢力により49年ヴィジャヤナガル王国は滅亡した。彼らは約百年後の18世紀後半マイソール王国として復活。現在のインド共和国につながる。
質素倹約、インド版徳川家光 アウラングゼーブ帝
58年に即位(アクバル帝即位から102年)。
アウラングゼーブ帝は、タージ=マハルを作ったシャー=ジャハーン帝の息子。三男で皇帝になる予定はなかった。そのため、インドの南デカン高原の太守であった。
このころ、ムガル帝国はタージマハルを作ったことでムガル帝国の財政は傾いた。それでもシャー=ジャハーンは自分の墓を黒大理石の豪華なものにしようとした。そのため、アウラングゼーブ帝は父シャー=ジャハーンを幽閉し、即位した。
イスラム教の国教化 タージマハルは、イスラム教に反する。
イスラム教は偶像崇拝を否定した。これは華美な生活の否定である。この考え方で行くと、タージマハルはイスラム教に反している。アウラングゼーブ帝は、宗教政策を転換して、イスラム教の強制を始めた。
シズヤ(異教徒への人頭税)とヒンドゥー教寺院のイスラム教寺院(モスク)への建て替えである。
これらの政策は、異教徒たちの反感を買い18世紀のムガル帝国の衰退につながる。これが、南インドのヒンドゥー教マイソール王国(ヴィジャヤナガル王国)と西北インドのシク王国である。
フランスのインド進出
48年、三十年戦争が終結。オランダはこの時独立を達成した。その5年前、フランスでは太陽王ルイ14世が即位した。三十年戦争で、神聖ローマ帝国(オーストリア)と貴族の発言力を弱め、絶対王政の絶頂期を迎えた。このような中、64年フランスは東インド会社を再建した。同じころ、イギリスはムガル帝国の南端に近いボンベイに拠点を築いた。
70年代に入り、フランスは南インドではボンディシェリ、ムガル帝国では東部ベンガル地方(のちのバングラデシュ)にシャンデルナゴルに進出し、ベンガル太守と友好関係を築いた。ちなみに、イギリスがベンガル州に拠点を築くのは90年のカルカッタの時である。
フランスが築いた2つの拠点は18世紀の英仏植民地戦争の舞台になる。南インドのカーナティック戦争とベンガル州のプラッシーの戦いである。
地図を見るとヨーロッパの拠点はインドの東側に集中している。その理由はインドの西側はイスラム商人の勢力が強いからである。
インド統一
このころ、みなインドはのようになっていただろうか。49年にヴィジャヤナガル王国が滅亡後もイスラム教国で分裂していた。
81年、元デカン高原太守のアウラングゼーブ帝は分裂状態の南インドへ侵攻。全インドを統一した。
この頃の日本は
インドへ進出したフランスは