17世紀、日本では江戸時代の初期で、中国では清王朝が成立したころである。
17世紀のフランスは、16世紀末に成立したブルボン朝が貴族の権限を弱めて絶対王政を確立する時代である。それを支えたのがリシュリューとマザランである。
そのフランスが全盛期をむかえたのが、17世紀後半、太陽王ルイ14世の時代である。その象徴がヴェルサイユ宮殿である。
ルイ13世の宰相リシュリューと三十年戦争
17世紀の前半のヨーロッパは、凶作と不況の時代であった。フランスも例外ではなかった。16世紀後半に行われたユグノー戦争でフランスは荒廃していた。さらに、神聖ローマ帝国(ドイツ)では、16年に三十年戦争という宗教戦争が行われた。
三十年戦争で神聖ローマ皇帝と戦う。
三十年戦争は、神聖ローマ帝国(ドイツ)で行われた宗教戦争である。神聖ローマ帝国皇帝(オーストリア)などのカトリック教徒と北ドイツなどのプロテスタントにおける戦争である。フランスは、当初カトリック側を支援していた。しかし、30年には、神聖ローマ皇帝(オーストリア=ハプスブルク家)をたたくチャンスと考えプロテスタント側に寝返った。オーストリアとフランスは、1494年のイタリア戦争以来、因縁がある。32年、プロテスタント側の盟主スウェーデン国王グスタフ=アドルフが戦死すると、35年、ルイ13世は、プロテスタント側で参戦。よく、カトリックにも関わらずプロテスタント側にた戦ったといわれている。しかし、1598年のナントの勅令で宗教の自由が認められていた。しかも、ローマ教皇と関係も悪化していた。
宰相リシュリュー、三部会をやめる。
1610年、フランスでは、アンリ4世*1が暗殺、わずか9歳でルイ13世が即位した。ルイ13世をささえたのが、宰相リシュリューである。宰相リシュリューは、1615年、フランスの国会である三部会を閉鎖した。この三部会が再び開かれるのは1789年のフランス革命期である。ちなみに三部会が最初に開かれたのは1302年のアナーニ事件の前のことである。三部会を閉鎖した背景にはユグノー戦争で貴族が疲弊したこともある。
ルイ13世、スペインから后を迎える。
15年、ルイ13世はスペイン国王(スペイン=ハプスブルク家)フェリペ4世の王女を后に迎えた。しかし、35年、フランスがプロテスタント側で三十年戦争に参戦すると、スペインと交戦状態となった。
ルイ14世の宰相マザラン、フロンドの乱を鎮圧し絶対王政を引く。
1643年、ルイ13世がなくなると、ついに太陽王ルイ14世が即位した。即位時にはまだ国王の権力はそれほど大きくなかった。これを支えたのが宰相マザランであった。
三十年戦争で、オーストリアに勝利。
48年、三十年戦争が終結。オーストリアの講和条件ウェストファリア条約は以下のとおりである。
フロンドの乱に勝利し、絶対王政を確立。
マザランは、高等法院(裁判所)を閉鎖した。それに対し貴族は、反乱を起こした。フロンドの乱である。ウェストファリア条約が締結された48年にまさに始まった。当初、高等法院で働く貴族の反乱であったが、ほかの貴族や農民にも波及した。農民の反乱では、40年に始まったイギリス革命の影響も受けている。マザランは、一連のフロンドの乱を鎮圧。これにより、貴族は国王にあがなうことができなくなり、絶対王政が確立した。
フロンドの乱を納めた宰相マザラン、スペインに勝利
三十年戦争が終結してもスペインとの戦争は継続した。スペインは、ブロンドの乱で貴族側の支援も行った。一方フランスは、40年のイギリス革命で実権を握ったクロムウェルと結んだりした。40年スペインでもカタルーニャ(バルセロナのあたり)の独立運動がおこる。53年、ブロンドの乱が鎮圧すると、翌59年、ピレネー条約を締結。スペインとスペイン領ベルギーからそれぞれ領土を獲得した。また、フェリペ4世の王女をルイ14世の后として迎えた。
太陽王ルイ14世のフランス全盛期
61年、宰相マザランが亡くなると太陽王ルイ14世の全盛期になる。
侵略戦争
67-68年、南ネーデルランド継承戦争
スペインから、ベルギー(南ネーデルランド)をうばう
72-78年、オランダ戦争
第3次イギリス=オランダ戦争
結果
フランスは、オランダの独立を承認
オランダは、フランスのベルギー領有を認める。
当時のオランダ領主ウィレムは、89年名誉革命でイギリス国王になる。
コルベールの重商主義と植民地獲得競争
ルイ14世の絶対王政を財政面で支えたのがコルベール財務長官であった。
彼のとった政策が重商主義で貿易黒字で財政を潤そうとする政策である。彼のとった政策は、東インド会社の再建と国内商工業者の育成であった。それを陰で支えたのがユグノーたちであった。
ちなみに、フランス人はそれほど多くの人が植民地に移住しなかった。そのため、原住民との交易が主たるビジネスであった。そのため先住民と良好な関係を築くことができた。
植民地政策のライバルは、永遠の宿敵イギリスである。イギリスはフランスと異なり寒冷のため多くの人が植民地へ移住した。その結果、先住民を追い出したり奴隷にしたりして大規模農園事業を営んだ。
当時の主たる植民地は、北アメリカとインドである。北アメリカでは、先に植民地化したイギリスが東岸に植民地とした。そのため、フランスはカナダからミシシッピ川を通じて内陸部を拠点とした。ミシシッピ川沿岸は、ルイ14世の名をとってルイジアナと呼ばれている。インドではフランスとイギリスで勢力圏の違いはなく、イギリスの拠点のすぐにフランスの拠点が築かれた。
なぜ、イギリスとフランスの間で戦争が起こらなかったのか。
なぜ、当時フランスとイギリスで植民地戦争が起こらなかったのだろうか。それは、イギリスが革命の真っただ中にあったからである。40年から始まるイギリス革命(ピューリタン革命)である。また、52年からは、イギリス=オランダ戦争も始まり、フランスと戦争する余裕などなかった。
バロック文化とヴェルサイユ宮殿
ルイ14世は、パリ郊外にヴェルサイユ宮殿を建設。ルイ14世はパリを離れヴェルサイユ宮殿で生活するようになる。以後、1789年フランス革命のヴェルサイユ行進 まで首都であり続けた。
この時期、宮廷文化が成立した。華麗でダイナミックなバロック美術である。音楽や文学では新古典派が活躍した。
ナントの勅令廃止とファルツ戦争
85年、ルイ14世はナントの王令を廃止し、プロテスタントを禁止した。ユグノー商人は、カルヴァン派国家のスイスやオランダへ亡命した。これにより、フランスの経済は悪化する。
また、イギリスでは、89年の名誉革命でウィリアム3世が国王に即位。一連の革命は終結。また、オランダとの戦争も終結。フランスと戦争が行える体制が整った。
そのような中、88年ファルツ戦争が始まった。神聖ローマ帝国の領邦の1つ、ファルツの承継問題で、神聖ローマ帝国に宣戦布告。しかし、スウェーデン、スペイン、イギリス、オランダが神聖ローマ帝国側につき敗戦。
このころから、イギリスとフランスの植民地戦争が始まる。この時期、北アメリカではウィリアム戦争が行われた。
この戦いでフランスは、スペインからカリブ海のハイチを獲得する。
次回予告
ヴァロワ朝がどのようにして成立したのか
なぜ、ヴァロワ朝フランスは、ナントの王令でユグノーを保護したのか。
ユグノー商人が信じるカルヴァン派とは
次回、16世紀のフランス ヴァロワ朝 ユグノー戦争とブルボン朝の成立
このころ日本は
このころの中国は