17世紀の中国 漢民族の明王朝から女真族の清王朝へ
17世紀、日本で江戸幕府が成立した。
同じころ、中国では、漢民族による明王朝から、中国東北部の狩猟民族女真族の清王朝へ王朝交代が行われていた。
中国東北部の女真族が清王朝を建国。おなじころ、明王朝は崩壊した。康熙帝が即位すると、三藩の乱で呉三桂ら漢人武将をたおし、18世紀の黄金期に入る。
18世紀以前の中国の王朝は、3つの民族が交代で王朝を回していた。もともと中国に多く住んでいる漢民族。中国東北部で狩猟で生活を形成していた女真族。そして、モンゴルなどの北方騎馬民族である。17世紀に成立した清王朝は女真族の国であり、14世紀~16世紀にかけて成立した明王朝は漢民族の国。そして、13世紀に世界を席巻したモンゴルは、北方騎馬民族である。
明王朝は、15世紀から続いた北方騎馬民族の対応や南部の闇貿易の取り締まりで苦しんでいるところに、豊臣秀吉の朝鮮出兵や女真族の独立が続き、衰退傾向にあった。
1616年、中国東北部の女真族は金を再建。金は、12世紀から13世紀に中国北部をおさめた女真族の国である。26年2代目、ホンタイジに世襲。モンゴルを支配下に入れる。36年には国号を金から清に変更。
一方、北京の明王朝では、重税と飢饉のため、反乱がおき44年李自成の反乱軍によって滅亡した。
明王朝滅亡後、女真族の清が北京に入城した。清王朝は元と異なり漢人将軍を採用した。清は明の政策を継続した。
貿易では、明王朝の海禁政策を解除し、自由貿易を認めた。当時の交易相手は主にヨーロッパ諸国で、生糸、陶磁器、茶を輸出し、日本やアメリカ大陸で採掘された銀が大量に流入した。このころ、南シナ海では、スペイン・ポルトガルなどカトリック教国だけでなく、イギリス・オランダなどのプロテスタント教国も進出した。特にオランダは、台湾に拠点を築き、徳川家康と良好な関係を築いた。そのため、日本が鎖国に入っても交易を続けることができた。
61年康熙帝が即位。73年、漢人将軍の反乱(三藩の乱)がおこるが清軍はこれを鎮圧した。これ以降、清の黄金期を迎える。
一方、オランダの拠点になっていた台湾は、61年漢人の漢人将軍の鄭成功がオランダ人を追放して占領。清王朝に抵抗した。しかし、三藩の乱を鎮圧した83年康熙帝は台湾を占領。
シベリア開拓を進めたロシアが中国北方に登場。89年ネルチンスク条約で国境を画定させる。
このころ日本は
その後の中国は