10年単位100年単位でみる世界史まとめブログ

世界史を初めて学ぶ方のために、地域ごとに18世紀までは100年単位、19世紀以降は10年単位でまとめたブログです。わたしも世界史を勉強し始めたばかりなので一緒に勉強できればと思います。HPを開設しました。https://sekaishiotaku.com/

16世紀のインド ムガル帝国の建国とインド版織田信長ことアクバル帝

 16世紀(1501年~)、日本は戦国時代の真っただ中にあった。16世紀後半になると織田信長豊臣秀吉が活躍する。このころ、ヨーロッパは大航海時代に入った。

 このころ、北インドムガル帝国が成立。建国当初は、北インドの一小国であった。16世紀後半のアクバル帝の時代になると、北インドを統一する。アクバル帝はイスラム教とヒンドゥー教の融合を進め、インド=イスラム文化の基礎をづいた。

 また、インド洋では、ポルトガル船が登場ムスリム商人の代わりにアジア交易を取り仕切るようになった。

 

前回の復習 17世紀のインド

 17世紀、アクバル帝がなくなり、アウラングゼーブ帝が活躍した時代である。今回はムガル帝国北インドの大帝国になっていく過程とアクバル帝が行ったことを見ていく。

 一方で、南インドでは、イギリスが来航。今回は、イギリスよりも前にインドを訪れたポルトガルについてみていきます。

 

自称ティムールの子孫がムガル帝国を建国

 26年、イスラム教国ムガル帝国が建国された。建国者は、ティムールの子孫バーブルである。ムガルとはモンゴルのインド風の呼び名。バーブルはもともと、アフガニスタンを拠点を置いていて、北インドを中心に活躍。ちなみに、ティムールは14世紀末に中央アジアから中東までを治めた皇帝である。
 26年、デリー=スルタン朝最後の王朝、ロディー朝に勝利(パニーパットの戦い)
ただ、この時はデリー周辺を治める一地方政権に過ぎなかった。

 二代目、フマーユーンの時代には、ベンガル地方(インド北東部)のアフガン勢力がデリーに侵攻。フマーユーンは一時デリーを追われた。55年、フマーユーン帝はデリーを奪還した。

大航海時代ポルトガルのインド進出

 16世紀は大航海時代である。コロンブスアメリカ大陸に到達したのは15世紀末の1492年のことである。

パスコ=ダ=ガマがインドに到達

 1498年、ポルトガルのパスコ=ダ=ガマがインドに到達した。南インドカッである。(ベンガル州のカッコルカタ>ではないことに注意)。この地は15世紀初頭に、明王朝鄭和が来航した港町である。当時はムスリム商人の拠点であった。18世紀末、イギリスが拠点を置く。当時のインドは統一的な王朝はなかった。ムガル帝国はまだ存在せず。南インドにはヴィジャヤナガル王国などがあった。

ポルトガル VS ムスリム商人(マムルーク朝エジプト)

   15世紀のインド洋は、ムスリム商人が支配していた。それを武力で守っていたのがマムルーク朝エジプトである。09年、新興勢力ポルトガルマムルーク朝エジプトが戦った。ポルトガルはこれに勝利。インド洋(アラビア海)の制海権を獲得した。翌10年には、インドのゴアやスリランカ島を占領した。一方、マムルーク朝エジプトは衰退。17年、最盛期のオスマン帝国に征服される。(20年、スレイマン1世即位、29年ウィーン包囲)

ポルトガルは、戦国時代の日本へ

 ポルトガルは、さらに東に向かった。11年、南シナ海(太平洋)への入り口、マラッカ海峡を占領。15年、ペルシア湾のホラズム海峡を占領(22年にサファヴィー朝ペルシアに奪還される)。17年、明王朝と交渉を開始する。21年、ついに香辛料の産地の東南アジアのモルッカ占領を占領。43年、日本の種子島に来航(いわゆる鉄砲伝来)である。日本は戦国時代の真っただ中。あっという間に鉄砲は日本中に広まった。50年には日本の平戸(長崎)、57年には明王朝マカオに拠点を置いた。

 
インド版織田信長 アクバル帝

56年、北インドムガル帝国でアクバル帝が誕生した。

北インドの統一

 アクバル帝が即位したとき、ムガル帝国はデリーの一地方政権に過ぎなかった。しかし、アクバル帝は遠征を繰り返し、ベンガルバングラデシュ)、北インドパキスタン、アフガンを治めるインド帝国になった。

 ちなみに、インド全域を統一したのは、約100年後のアウラングゼーブ帝のころである。

内政面では検地を実施

 アクバル帝は、軍事だけでなく内政面であも結果を残した。支配層を組織化し、官位制度を導入した。(マンサブダール制)。アクバル帝は中央集権的な政治を行った。一方で、検地を行った。新首都アグラを建設。デリーから遷都した。

寛容な宗教政策

 ムガル帝国は、イスラム教の国である。しかし、インド人の多数はヒンドゥー教を信仰していた。そのため、アクバル帝は民衆の支持を得るためヒンドゥー教にやさしい政治をとった。

 アクバル帝は、ヒンドゥー教の女性を后にむかえた。また、異教徒のみにかけていたシズヤ(人頭税)を廃止した。
 これにより、イスラム教とインド古来の文化が融合。インド=イスラム文化がとうじょうした。ペルシアから伝来した細密画(ミニチュアール)をベースにしたムガル絵画はその一例である。

16世紀は宗教改革の世紀である。

 インドで、アクバルがヒンドゥー教イスラム教の融合を進めていたころ。日本では、織田信長宗教改革を行っていた。キリスト教の布教を認める一方で、延暦寺の焼き討ちを行った。

 またヨーロッパでは16世紀の初頭にルターが「九十五か条の論題」を発表した。

このころ日本は

 

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 ポルトガルが訪れた明王朝

 

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