9世紀、日本では平安時代初期。都が京都に移ったころである。
この頃、インドはラージプート時代の戦乱期である。このころ、イスラム教のアッバー朝は最盛期が終わり、分裂期を迎えていた。そのため、イスラム教の脅威が薄らいだ頃であった。ラージプート勢力の最盛期になった。
イスラム教アッバース朝の分裂
9世紀初頭、アッバース朝は全盛期を迎えていた。中央アジアから北アフリカまでの大帝国になっていた。しかし、09年三代目カリフハールーン=アッラシードがなくなると、アッバース朝は分裂を始めた。
サーマーン朝、奴隷売買で栄える。
8世紀後半になるとペルシア東部でサーマーン朝がアッバース朝から独立した。サーマーン朝はイラン(ペルシア)人のイスラム教国家である。サーマーン朝は、中央アジアへ侵攻。トルコ系騎馬民族を奴隷にし、分裂したイスラム国家群に販売した。奴隷にされたトルコ系騎馬民族は主に軍人として活躍した。彼らはマムルークと呼ばれた。
イスラム教では、アッラーの下で平等を唱えているので奴隷は禁止されている。しかし、例外はある。それは異教徒である。異教徒は当然イスラム帝国の外にある。そのため、奴隷を利用した国は辺境国に存在する。その代表例はサーマーン朝のマムルークとオスマン帝国のイェニチェリである。
ラージプート三国志
9世紀、イスラム勢力は分裂の混乱期である。一方で、インドではラージプート時代の最盛期を迎える。その中心となったのは3か国である。北インド(未来のデリー周辺)のヒンドゥー教国プラティハーラ朝、南インド(デカン高原)のヒンドゥー教国ラシュトラクータ朝、そして東インド(未来のベンガル州)のパーラ朝である。
北インドのプラティハーラ朝
プラティハーラ朝は、ラージプート勢力の一つで北インドに勢力を持っていた。建国は、8世紀で9世紀に全盛期を迎えた。おもにヒンドゥー教を信仰していた。
プラティハーラ朝の都はデリーではなく、カナウジであった。カナウジは7世紀ヴァルダナ時代に作られた都である。この都は、11世紀、ガズナ朝のマフムードによって破壊され、プラティハーラ朝とともに滅亡した。その後、北インドの中心都市となったのは、13世紀の奴隷王朝(デリ=スルタン朝)が作ったデリーに移るころになる。
南インドのラシュトラクータ朝
ラシュトラクータ朝は、ラージプート勢力の一つで南インドのデカン高原を勢力圏としていいた。8世紀の中ごろに建国。10世紀末に後期チャールキヤ朝によって滅ぼされた。ヒンドゥー教を信仰している。
バングラデシュの仏教国パーラ朝
東インド(ベンガル州)には、パーラ朝が存在していた。パーラ朝は他の2つ国と異なり仏教を信仰していた。このパーラ朝は、9世紀初頭に全盛期を迎えていた。パーラ朝は、ナーランダー僧院を復活させた。
南インドに後期チョーラ朝
パッラヴァ朝の官僚が建国。
パッラヴァ朝を倒す。当時、パッラヴァ朝は、パーンディヤ朝との抗争や内紛で衰退していた。
この頃の日本は
このころのイスラム勢力は