1860年代のインド ムガル帝国滅亡後のインド
1860年代、日本は江戸時代が終わり、明治新政府が成立した。
前回の復習
70年代、インドはイギリス領インド帝国となった。今回は、イギリスのインドの直轄統治の方法を見ていきます。
ヨーロッパ情勢、クリミア戦争後の疲弊したヨーロッパ
当時のヨーロッパはどのような状況であったのであろうか。50年代、クリミア戦争が起き、その後恐慌が起き、ヨーロッパは疲弊していた。アメリカでは南北戦争が勃発。アメリカ産綿花が入荷できず綿花の価格が高騰した。フランスはナポレオン3世が海外植民地の獲得にいそしんでいた。このころ、中欧には2つの新興国が台頭した。イタリアとプロイセン(のちのドイツ帝国)である。東欧ロシアは、クリミア戦争の敗北を受けて改革の方向へ向かった。内政的には農奴解放令という農地改革を進めた。外交ではバルカン半島をあきらめ、中央アジアや極東(清王朝、明治新政府)に力を注いでいた。
本国、イギリスの情勢、ヴィクトリア女王の黄金期
イギリスは、クリミア戦争でヨーロッパが疲弊する中、ヴィクトリア女王の黄金期を迎えていた。
外交面でも、清王朝にアロー戦争に勝利。長江沿岸を商業圏にすることができた。また、労働者との関係も良好で、第2回選挙法改正で都市労働者にも選挙権が与えられた。
イギリス領インド帝国 の統治スタイル
58年のシパーヒーの反乱を治めたイギリス。シパーヒーの反乱を指揮した罪で、ムガル帝国を名実ともに滅亡させた。一方で、シパーヒーの反乱を引き起こした東インド会社も解散させた。
このころ、南北戦争の勃発で綿花の価格が暴騰した。そのため、インド産の綿花の需要が大きく高まった。
イギリス政府は、本国にインド省、インド大臣を置いた。また、インドではベンガル提督をインド提督に格上げ、イギリス人による参事会を設置した。
イギリスは、カルカッタ周辺のベンガル州など直轄地と旧領主にある程度の自治権を認めた藩王国に分けて統治されていた。藩王国は、江戸幕府における大名のような地位にあった。
インド周辺の国際情勢
ナポレオン3世の植民地政策
フランスは、ナポレオン3世の時代である。彼のカリスマ性を高めたのは植民地の拡大であった。
インドの西では、エジプトにスエズ運河を建設
この時代、フランスのもっとも重要な植民地は、北アフリカのアルジェリアであった。そのため、隣国のエジプトの関係はかなり良好であった。両国は、共同出資でスエズ運河を建設した。スエズ運河は地中海とインド洋を結ぶ重要な海路であり、フランスはこの海路の建設でアジア進出を加速化させるはずであった。
インドの東、東南アジアでイギリスと対立
50年代、アロー戦争で清王朝(中国)に勝利したフランスは、東南アジアの植民地化を進めた。その拠点はベトナムである。イギリスはこれに危機感を抱き、マレーシアを直轄領とした。
インドの北、中央アジアに進出するロシア
クリミア戦争に敗北したロシアは、中央アジアへの進出を進めた。とくに、中央アジアは綿花の産地であり、南北戦争で綿花の価格が高騰するとその重要性は高まった。
これにより、中央アジアとインドの間にあるアフガンをめぐり、イギリスとロシアは対立を深めていく。この戦いをグレートゲームという。
このころの日本は